日本政治の考察
by priestk
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
リンク集
フォロー中のブログ
日本国財政破綻Safet...
~つれづれ日記~
The GLPC
天声手帳
週刊!Tomorrow'...
社会派ブログ--実はただのグチ
浮世風呂
小言日記
多事論争 neXt
ネットは新聞を殺すのかblog
屋根裏部屋
にぶろぐ@無人店舗
みんなでインテろう!
納得のいく論文が書けるよ...
糸巻きのブログ
ひまじん日記
rnalength ちょ...
人、物、金、情報の移動、...
カテゴリ
全体
政治・政治学書籍
日朝関係論
憲法論
外国人労働者論
天皇論
防災・危機管理論
その他内政・外交
政局・選挙
雑談
プロフィール・連絡先
未分類
最新のトラックバック
≪GOOD NEWS≫ ..
from エクソダス2005《脱米救国..
当面する最優先の政治課題..
from エクソダス2005《脱米救国..
submissive a..
from submissive bes..
large drop s..
from large sell 04/04
latex bestbuy
from latex shipped ..
dogsex perso..
from dogsex big gay..
buy cheap am..
from buy cheap ambien
buy cheap am..
from buy cheap ambien
buy cheap am..
from buy cheap ambien
hydrocodone
from hydrocodone
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:憲法論( 4 )
日本における個人主義批判の思想的伝統
 サラリーマンサバイバル日記さんの記事、「『立憲主義』自民を包囲/衆・参の憲法調査会、論議最終盤へ」を拝見して、ひとつ気がつくことがあった。結論から言えば、日本には「個人主義批判の思想的伝統」があるのではないか、ということになる。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」という考えが自民党内に強まってることについては、たびたび報じられている(参考)。僕自身は自民党の認識にはかなり違和感を覚えていて、以前の記事でも取り上げてきた。

 普通、自民党の憲法観は、「法学のイロハをしらない」とか「立憲主義の否定」という言葉で批判される。たしかに、法律家の立場からすればもっともな批判である。しかし、一見、思いつきの域を出ないようにさえ見える自民党の「個人主義批判」の思想的な根っ子は、かなり深いのではないかと思うのだ。

 結論めいたことを言うと、「行き過ぎた個人主義」を批判する思想的立場は、昭和12年に文部省が編纂・刊行した『国体の本義』の思想と酷似している。

 『国体の本義』は、大正デモクラシー以降、定説的な地位を占めていた美濃部達吉の天皇機関説を否定した「国体明徴運動」のイデオロギーを確立したもの、と言えるだろう。一部の右翼的な団体のものでしかなかった国体思想が、『国体の本義』をもってして、日本の公定イデオロギーとされたのである。

 また、同書が著された昭和12年という年も気になる。昭和12年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。翌昭和13年には国家総動員法が制定されている。つまり『国体の本義』は、本格的な戦時体制へ移行するにあたって、日本社会の思想的引き締めを図ったものと見ることが出来るかもしれない。

 それはともかくとして。
 同書の「結語」には、以下のような一文がある(以下、引用は近代日本思想史研究会『天皇論を読む』講談社現代新書、2003年)。

明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあったが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亘って種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以って広大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。
 ここで言う、西洋文明の「醇化」とは、「その本質である『個人主義』を切り捨て、『自然科学』や『精神科学』『及びその結果たる物質文化の華やかな発達』を輸入すること」を指している。手っ取り早く言えば、「和魂洋才」である。

 また、同書は、人間とは、現実の存在であると同時に「永遠なるものにつらなる歴史的存在」であって、「国民精神に基づいてその存在が規定される」という。つまり、個人は単独で存在しているのではなく、あくまで「国民」という有機的に結びついた存在の一部だと規定される。つまり、独立した個々人が集まって社会を構成していると見る、社会契約説的な社会観を否定しているわけである。

個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて、全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に走る。ここに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。
 このように、国体思想を、西洋思想の一バリエーションとしてではなく、西洋思想よりも一段高いレベルにあるものとする考え方は、「近代の超克」を図った当時の思想家に共通している。

 もちろん、現在では「国体思想」そのものの優位性を信ずる人はごく少ないだろう。しかし、近代立憲主義の掲げる「普遍性・非歴史性」を顧みることなく、国体思想の思想的柱である「国民性と歴史性」をごく自然に受け入れる自民党の姿勢は、『国体の本義』の精神と通じるものがある。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」。近所の口うるさいジイサンがため息まじりにもらすようなありふれた言葉だが、その根っこは、結構深いのかもしれない。だとすれば、立憲主義者の側も、教科書どおりの反論をするだけでなく、もっと本腰を入れた議論を行なわなければいけないのではないか。
[PR]
by priestk | 2004-12-10 20:30 | 憲法論
ぷち対談2:憲法に「理念」はいらないか?
 最近、ブログの新しい面白さが判ってきた。自分の書いた記事が、他のブロガーの手を経て、当初思ってもみなかった発展をみせることがあるのだ。これに関連して、「週刊!木村剛」の11月6日付の記事「ブロガーは裏読みで筆者を越える!」の一文をご紹介する。
ブログの魅力のひとつは、自分の主張を公にさらしてみたときに、自分では想定していなかった鋭い分析や裏読みが為されたりするということにあると思います(中略)オリジナルの筆者を超える解説者が出てくる・・・これもブログ文化のダイナミズムなのかもしれません。
 今回は、憲法観をめぐる一連の拙文を下敷きに新たな議論を展開されたnagoyanさんの記事「憲法に「国家理念」はいらない」に対する僕の感想を書きたい。

 まず、「理念」という言葉について、誤解があるといけないので整理させていただきたい。僕が「憲法に国家理念を盛り込んでもよい」と書いたときに想起していた「理念」とは、自由・平等・博愛を謳ったフランス人権宣言だった。立憲主義とか民主主義と呼ばれる「理念」だ。この意味で、憲法が「理念」と無縁ではないのはnagoyanさんもご指摘のとおりである。

 一方、より「価値的」な理念もある。nagoyanさんが「多数者の理念」とよばれ、Shuさんが「その国の歴史的背景の中で涵養されてきた共有感覚や理念」と呼ばれるものだ。問題となるのはこちらの「理念」である。
 nagoyanさんは、理念を持ち込むことの危険性を次のように指摘する。
憲法に「国家理念」を求めるものは、かならずや、多数者の「理念」を普遍的なものとして、憲法にもちこもうとするに違いない。「常識」論を突破口として、少数者に抑圧的な価値を潜り込ませようとするだろう。
 さらに、記事の後半でこうも述べる。
憲法に必要な「理念」は、「理念」に気をつけろ、あるいは、「理念」を語るなかれ、ということだと思う。国家に「理念」は必要ない。国家は「理念」を異にする人々が共存する「公」的な空間である。憲法は「理念」を異にする人々が、共存しうる「技術」の集約であるべきだ。それ以上のものを憲法に求めては、憲法の前提とする大切な価値が失われてしまう。
 以上から、nagoyanさんは、「価値的」な「理念」は近代憲法と根本的に矛盾する、と論じられているように見受けられる。Shuさんは反対に、国権制限(をはじめとする立憲主義)と国家理念は憲法の「二つの柱」と語っている。

 僕の立場は、価値的な理念の導入を必ずしも否定するものではない(ここがnagoyanさんのがっかりポイント?)。ただし、僕は憲法に盛りこむ価値的「理念」には二つの条件があると拙文「ぷち対談:憲法とはなんぞや?」で論じている。

 ①立憲主義の基本原則(国権制限、基本的人権、三権分立など)を侵犯しないこと、②「その国の歴史的背景の中で涵養されてきた共有感覚や理念」が何であるは決して自明ではないので、幅広い論議を必要とすること、だ。「憲法にあらためて盛り込むほどの理念はなかった」という結論もありだろう。

 しかし、自分で言っておいてなんではあるが、もちろん、こうした条件付けはnagoyanさんが懸念する「少数者への抑圧」の可能性をゼロにするものではない。ただ、反対に、立憲主義や基本的人権の尊重を掲げていれば「少数者への抑圧」がゼロになるわけでもない。フランスの公立学校におけるイスラム教徒のスカーフ着用禁止問題はその一例だと思う。

 個人的には、日本文化の「雑居性」を理念として掲げ、「他者への寛容さ」を打ち出すというのが望ましい方向性だと考える。
[PR]
by priestk | 2004-11-07 23:08 | 憲法論
ぷち対談:憲法とはなんぞや?
 前回の拙記事「もはや憲法とは呼べない」に対して、Shu's blog 雌伏編のshuさんから、非常に有益なコメントとトラックバックをしていただいた。Shuさんは、僕も登録している人気blogランキングの政治ブログランキングの中でも、最もバランス感覚に優れた記事を書かれるブロガーのお一人である。僕など、shuさんの記事を読み、反省することしばしば。
 さて、今回は、shuさんの記事(「憲法の理念等」)に対する僕の再コメントを掲載させていただきたいと思う。

以下、僕のコメント。

 大変参考になりました。shuさんのご意見に異議はほとんどないのですが、「こういう解釈もあり得るかな」という気持ちで、以下のコメントをさせていただきます(^^)

 憲法の「国家理念(国民的共有理念)」側面について、たしかに見落としていました。この側面は現実に存在しますし、議論する価値が十分あります。
 ただし、僕は、やはり憲法の「本質」は国権の制限にあると思うのです。(西洋の)歴史からすれば、君主の恣意的な国家権力の行使を制限しようとした「立憲主義」の精神は、「国民的共有理念の普及」に先行して成立しているように思われます。1689年名誉革命におけるイギリス権利章典、1791年アメリカ合衆国国憲法、1791年フランス憲法といように。
 もちろん、こうした憲法に「国家としての理念を高らかに宣言し、国民の共通理念とする意義」が無かったわけではないと思います。

 問題は、歴史学の知見からして、憲法制定当時のイギリス、アメリカ、フランス等に実体としてのネーション(=国民)は存在していなかったことです。近代国家による全国一律の歴史教育や国家と国旗の法制化を通じて、歴史の共有が行なわれ、「われら」概念の育成がなされてきたと考えられます(この時点で身分制の実質的解体が行なわれた)。

 以上をまとめますと、まず、憲法は国権制限として誕生した。次にネーションを創出し、一体化させるプロセスの段階で、「国家理念の共有」の側面が重要になってきたと言えるのではないでしょうか。

>国体とは、その国の歴史的背景の中で涵養されてきた共有感覚や理念によるものであるが、これを反映していないconstitutionなどというものは本来あり得ない。

 各国固有の歴史を無視した憲法はあり得ない、というご意見にはまったく同意します。
 しかし、日本の共有感覚や理念が、国権制限、基本的人権、三権分立といった近代国家の基本概念の障害とならない限りにおいて、ですが。僕は、これら近代憲法の基本的概念は、各国固有の歴史を超えた、「人類共通の知恵」だと思うのですが。(教科書に書かれていることにとらわれすぎた妄想でしょうか)。

 また、「その国の歴史的背景の中で涵養されてきた共有感覚や理念」が何であるかについては、幅広い議論が必要だと思います。たとえば、明治維新以降に作られたにもかかわらず、あたかも古代から日本に続くように考えられている「新しい伝統」の位置づけ(私の記事「西園寺公望の皇室観」にあるような問題)など、です。
[PR]
by priestk | 2004-11-05 11:25 | 憲法論
もはや「憲法」とは呼べない
12月中旬に改憲案大綱 自民憲法調査会
Excite エキサイト : 政治ニュース

 帰宅後、朝日新聞(11月2日付朝刊)の特集記事を読んで、鼻からお茶がぶっ飛んだ。記事のタイトルは、「憲法 総点検」。与野党各党の憲法論議をまとめたものだ。唖然としたのは、自民党の憲法観のせい。

そもそも憲法って

 そもそも、なぜ憲法が人類の歴史に登場したのか。だれもが歴史の授業で教わることだが、憲法が誕生したのは、絶対君主による恣意的な国家権力の行使を制限するためだった。
憲法はいわば、国民が国家に向けて書いた命令であり、それを守るのは当然国家権力であって、国民一人ひとりではない。
 実際、憲法第99条は、憲法を尊重し擁護する義務は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」にあると定めている。国民が国家に向けて発した命令なのだから、99条の中に「国民」が含まれないのは当然だ。

自民党の憲法観

 しかし、以下に紹介する自民党の憲法観は、こうした常識的な憲法理解とは正反対のものだ。自民党の憲法調査会がまとめた「論点整理」では、
 憲法は、国民が従うべき「行為規範」であると、全く逆の定義づけを試みる。99条に国民を含めることも議論するという。憲法の「権利偏重」を正し、国民の「義務」や「責任」を規定しようという主張と一体だ。論点整理は「近代憲法が立脚する『個人主義』が『利己主義』に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながった」と、近代憲法のあり方そのものに疑念をぶつける。
 朝日新聞に指摘されるまでもなく、「憲法は国民が守るもの」という自民党の憲法観は、ごく一般的な法律論からかけ離れたものだ。法律をかじったことのある者なら、誰だって判る。自民党の政策担当者が、法律のイロハを知らないはずないのに……。

「常識」と「理屈」のすれちがい

 以上は、僕が記事を読んでいたとき感じたこと。ところが、よくよく考えれば、僕自身も「憲法は国民が守るもの」という発想が、さほど不自然ではないような気がしてくる。たしかに世の中の「利己主義」的な人は困ったものだ。「人様に迷惑をかけるな」と教わらなかったのだろうか。ニートの若者たちは、無理やりにでも社会に出して、義務感や責任感を叩き込んだ方がいい。それが本人のためなんだよ。自治体にだって迷惑行為防止条例があるんだから、国が国民の「行動規範」を定めてもいいじゃないか、ねえ、かあちゃん。

 きっと、自民党の憲法観を支持している大多数の人は、こんな素朴な公憤に駆られた、「常識的」な善意の人なのだと思う。イデオロギー的な理由で支持する人は、ごく少数に過ぎないのではないか。だとすると、共産党や社民党みたいに、憲法とは「主権者である国民の権利と人権を守るため、政治権力にしばりをかけるもの」だとか、「国家権力の暴走に歯止めをかけ、国民の権利を保障するもの」と「理屈」を並べたところで話がかみ合うはずもない。

善意の方々へ

 しかし、僕はあえて、「常識的」な日本の善男善女の方々に申し上げたい。マナーが悪い人を減らす方法は、憲法改正のほかにいくらでもある。家族や共同体の崩壊を食い止める方法ならば、もっと沢山ある。むしろ、憲法は社会問題を解決する道具としては、あまり有効ではない。憲法に罰則規定などないからだ。
 もし、自民党の憲法観を採用して、憲法を「国民が従う規範」に変えてしまえば、それは、もはや「憲法」とは呼べない。
[PR]
by priestk | 2004-11-02 22:58 | 憲法論