日本政治の考察
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カテゴリ:政治・政治学書籍( 11 )
憲法は万能ではない――『改憲論は必要か』を読む(2)
 前回に引き続き、憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』を題材としたい。
 執筆者が護憲派で固められた同書のなかで、ひときわ異色を放っているのが杉田敦氏の論文だ。タイトルは、「『押し付け憲法』は選びなおさないと、自分たちの憲法にはならないのではないか」である。

 しかし、こうした表題にもかかわらず、これまで延々と繰りかえされてきた「押し付けか、自由意志か」という議論に割かれているのは最初の5、6ページだけ。残りの14、5ページは、杉田氏独自の「コンスティテューション」観の説明に費やされる。しかも、氏の「コンスティテューション」観とは、これまでの護憲論・改憲論を「テキスト信仰」であるとしてバッサリ切って捨てる、なかなか熱い議論なのだ。うーん、エキサイティング。(^^)

 うまく要約する自信はないけれども、杉田論文のあらすじをご紹介しよう。

(1)「選びなおし」的な改憲論をどう考えるか

・現憲法の内容に不満は無いが、現憲法の起源にまつわる「ねじれ」を取り除くために国民投票で選びなおしたらどうか、という「選びなおし」的な改憲論を護憲派はどう考えるか。

・社会契約論的な説明法(「憲法は国民が自由な意思で選び取った。制定時多くの国民が熱狂的に歓迎し、その後も長いあいだ受け入れられてきた」)は、「そんなに社会契約が大事なら、もう一度きちんと選びなおそう」という意見に対し、契約論そのものによって反論できない。

・普遍主義的な説明法(「現憲法は人類にとって普遍的な価値を体現しており、直すべきところはない」)は、9条のような内容を含む憲法典が類例を見ないものであるため、説得力に欠ける。人民主権に立つかぎり、人民の多数派が求める改憲は止めることはできない。

(2)歴史を重視する「コンスティテューション」という発想

・英語のコンスティテューション(constitution)は、テキストとしての憲法典だけでなく、統治構造・政治体制も指す。とくにイギリスのコンスティテューションは、「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などの文書に加え、さまざまな慣習や判例を合わせた制度構造全体を含意する(フランス、ドイツの法典中心主義とは正反対の特徴)。

・歴史的にみれば、「憲法典をつくり直すというのは、一挙に政治体制をつくり直すという考え方と不可分であり、これはまさに革命の思想」(p.59)である。

・これに対し、イギリス流のコンスティテューションは革命ではなく歴史を重視する。日本でもイギリス流の考え方を定着させたい。「国会や裁判所だけでなく、それぞれの地域社会で、会社で、家庭で、人々の関係をどのようなものにするのかをめぐって、議論があり、対立があり、その結果として、ある種の制度や慣行が成立して行きました。(中略)白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」(p.61)。

(3)憲法は万能ではない

・護憲派は、立派な現行憲法があったおかげで戦後の日本はまがりなりにも人権・平和主義・デモクラシーが定着した、だから憲法を守るべきだというが、テキストだけ守っても実践が伴わなければ何にもならない。

・法律や慣習でどうにもならない問題が改憲で解決できるという発想は、主権国家が万能であるという幻想に依拠したもの。現実に生起している問題は、コミュニティのルール、自治体のルール、国のルール、そして国際法など諸ルールの相互関係の中で解決されるのであって、憲法の条文を書き換えて済むことではない。

 最後に僕から若干コメントをしたい。
 いかがだったろうか。正直に言って、違和感を覚えられた方も多いのではないかと思う。
 まず補足したいのは、杉田氏が「政治の領域」の問題として憲法問題に発言しているということである。これまで憲法はもっぱら「法の領域」で論じられてきた傾向がある。「法の領域」で問題となるのは、国家統治が法規範に従って進められているかどうか、である(swan_slabさんの記事「法の支配」を参照)。一方、「政治の領域」では、現実の利害調整のプロセスが問題となると言っていいだろう。その意味では、杉田氏が現憲法制定から60年におよぶ、憲法の血肉化のプロセスを重視したい気持ちはよく理解できる。

 ただ、憲法典が「それだけで何かを実現させる魔力を持っているわけでは」(p.60)ないにせよ、憲法が現実政治に及ぼす影響力の程度については議論の余地があるように思われる。杉田氏がいかにイギリス流のコンスティテューションを理想とし、その考え方の定着をはかろうとも、きわめて集権性の高い日本の法制度を考えれば、その試みは難しいものであると見なさざるを得ない。

 このように若干の不満点は残るものの、杉田論文は、政治学者による独創性ある憲法論として評価できると思う。改憲が秒読み段階に入ったと思われる現在、「白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」という指摘は、「ポスト改憲時代」の指針を与えてくれるものだ。

 改憲後、たとえ集団的自衛権の行使が認められたとしても、政府が国民に対して海外派兵の正当性を説得しなくてはならない事実に代わりはない。問題は、国民の側に、政府の不当な行為に声を上げるだけの意思があるかどうかだ。

 同様のことは政府にも言える。自衛隊に関わる憲法問題をクリアしたところで、日本の置かれた外交・安全保障環境が劇的に変わるわけではない。米国、中国、そして北朝鮮との関係を、日本により有利な形に持ってゆけるかどうかは、政府の具体的な行動にかかっている。
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by priestk | 2004-12-26 03:35 | 政治・政治学書籍
『改憲は必要か』を読む(1)
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 今年10月に岩波書店から出版された憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』をざっと読んだ。加藤周一氏の「まえがき」によれば、この本は「今広く世間に行なわれている改憲論の要点について、その背景を説明し、そこに含まれている問題点を指摘」したものだ。
 章立てはQ&A形式になっている。たとえば、樋口陽一氏による第1章のタイトルは、「いま、憲法九条を選択することは、非現実的ではないか」であり、これに応答するかたちで議論が進められていく。参考までに各章のタイトルと執筆者名を挙げておこう。

1 いま、憲法九条を選択することは非現実的ではないか(樋口陽一)
2 国連は無力なのだから、国連中心の平和主義には意味がないのではないか(最上敏樹)
3 「押し付け憲法」は選びなおさないと、自分たちの憲法にならないのではないか(杉田敦)
4 憲法といっても法の一つなのだし、改正の手続だって規定されているのだから改憲にそんなに慎重でなくてもよいのではないか(阪口正二郎)
5 憲法を改めれば、自由や人権の状況も改善されるのではないか(阿部 浩己)
6 市民がどれだけがんばっても、しょせん戦争は止められないし、世界は変わらない。憲法九条も変えられてしまうのではないか(北沢洋子)
7 現実と乖離した憲法は、現実にあわせて改めた方がいいのではないか(水島朝穂)

 執筆者の顔ぶれからもうかがえるように、同書では、全体的にオーソドックスな護憲論が展開される。代表的な護憲論者が、9.11後、イラク戦争後の世界をどう見ているか、その点を把握するという意味では、読んでも損はないと思う。

 ただ、僕に法学や憲法学の素養がないためかもしれないが、読んでいて多少の違和感がある。それは、同書の論文の中には、「現状批判の論」としては適切であっても、「問題解決の論」とは言えないように思われる議論が散見されることだ。

 たとえば、最上敏樹氏は、米英がイラク攻撃に際して国際社会の共同決定という手続きを経なかったことは、「規範の弛緩であり、法の支配の退行」であるという。そして「国連の集団安全保障が不完全であるなら、それを見捨てるのではなく、欠陥を補修し、より実効的なものにする工夫が必要」だと論じる。まことにもっともな意見だと思う。

 それでは、いったいどうすれば実行力ある国連集団安全保障を実現できるのか。最上氏は、国際安全保障を単独行動主義から切り離し、法的責任も明確な国際共同行動とすべきだと説く。
 しかし、これでは「目標」と「手段」が同義反復しているのではないか。極端なことをいうと、目標だけ示して、具体的道筋を描くことを放棄しているようにさえ見える――もっとも、これは法学や憲法学が法的妥当性を論ずる規範の学である以上、やむをえないことなのかも知れないが。

 同様の不満は、樋口陽一氏の論文についてもいえる。
 同氏は、「九条をめぐる改憲と護憲の最大の分かれ目は、『正しい戦争がありうるか』という問いに肯定で答えるか否定で答えるか」にあると主張する。その上で、「正しい戦争がある」とする意見の者は、「『正しさ』を見分けようとする真剣さを示してはじめて、『正しい戦争』そのものを否定する立場と対等に論争する立場に立てる」と述べる。

 樋口氏が見るところ、日本政府はイラクへの自衛隊派遣の「正しさ」について、「いざというときにアメリカに守ってもらえなくなる」以上のことを説明していない。
 また、人道のための武力介入を行うために改憲すると主張するのであれば、難民受け入れなど国内の人権・人道政策を充実させた上のことでなければおかしいではないかという。
 このような樋口氏の主張は、決して全面的に否定できるようなものではない。むしろ、もっともだと思う。

 しかし、結局ここでも問題に思うのは、この主張を政策論として見た場合の実効性の無さだ。樋口氏は、改憲論者の側が「正しい戦争」を行えるようにするため改憲案を提起した後に、論争を行い、国民が選択すればよいのだという。

 うーん、ちょっとおかしくないか。護憲論者が、いくら正しい論争をしようじゃないかと呼びかけても、その条件が整うことは永遠に無いと思われる。改憲論者は「正しい戦争」の是非を論じたいがために改憲論を主張しているわけではないからだ。
 この社会は、正しい論争を通じて正しい答えを導き出すことを自己目的化して動いているわけではない。むしろ民主的な討議のプロセスは、数多ある社会問題を解決するための手段だと思うのだが。

 僕自身は心情的には護憲論に共感を覚えるだけに、こうした法学一辺倒の護憲論にはもう少し説得力を増す工夫をしていただきたいと思う。

 さて、僕なりに興味を引かれた論文もあった。第3章の杉田敦氏の論文である。杉田氏は、護憲と改憲という対立軸そのものが不毛であると断じており、他の執筆者とはやや異なる姿勢を打ち出している。これには、氏が政治理論を専門とされる政治学者であることもかかわっているのかもしれない。
 長くなるので、杉田論文については次の記事でご紹介させていただきたい。
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by priestk | 2004-12-21 18:22 | 政治・政治学書籍
三位一体改革と省庁中心主義(書評:Chalmers Johnson "Japan: Who Governs?")
省庁、自民族議員が反発 三位一体、改革の試金石に
Excite エキサイト : 政治ニュース

■公然と反旗を翻した文科相と厚労相

 郵政民営化が自民党内の反対にじりじりと押されつつあるのは周知のとおりだ。しかし、ここにきて、「三位一体改革」も暗礁に乗り上げつつある。
 三位一体改革に対する反発は、郵政民営化と比べて、質的に異なる様相を見せつつある……そう、「閣僚の反乱」だ。

 今月12日の所信表明演説。小泉首相は意気軒昂に、「構造改革の芽が大きな木に成長するか否かは、これからが正念場だ」と語った。それに続けて、
国・地方の税財源改革である三位一体改革については、先に地方団体がまとめた補助金改革案を「真摯(しんし)に受け止める」ことを表明し、約3兆円の補助金改革と税源移譲、地方交付税改革について「全体像を年内に決定する」ことを宣言した(『毎日新聞』10月13日)。
 ところが……。
 所信表明演説の同日、官邸では義務教育費と社会保障費の2項目をめぐって、関係閣僚と全国知事会など地方6団体代表の協議会が設けられていた。あろうことか、その席上で厚労相と文科省が、反「三位一体改革」のノロシを公然とあげたのである。

 尾辻秀久厚労相は、「国民健康保険(国保)、生活保護費、児童扶養手当について、国庫補助負担率の引き下げを代替案の中心とする方針を表明」し、三位一体改革の柱である地方への税源移譲を拒否。

 約8500億円の義務教育費国庫負担金を削減対象とされた文科省に至っては、「『代替の財源はない。(代替案を)出せるかどうか、これから検討したい』(中山成彬文科相)と改めて反対し、細田博之官房長官が求めていた省単独の代替案提示を留保。政府全体として、代替案を検討すべきだ」と息巻いている(『産経新聞』10月13日)。

■日本を支配しているのは誰か?

 「首相、官房長官、なにするものぞ……」と言わんばかりの閣僚たち。まるで、関東軍顔負けの独立割拠ぶりではないか。
 尾辻氏にしろ、中山氏にしろ、先月末に小泉首相によって大臣に任命されたばかりだ。それにもかかわらず、まるで100年前から役所の住人であったかのような顔をして、官僚の言うなりに「省益」を主張している。

 こういう事実を見るたびに、僕は次の素朴な疑問を持たざるをえない。
 「この国を統治しているのは、いったい誰なんだ?」
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"Japan: Who Governs?"という本がある。
 単刀直入なタイトルをつけられたこの本の著者は、『通産省と日本の奇跡』で有名なChalmers Johnson教授。
 彼が一貫して主張しているのは、日本の近代化は官僚の産物である、ということ。

 江戸時代、各藩が多数抱えていた実務型官僚が明治前期の殖産興業政策を実施する担い手となった。20世紀初頭ころには、東京帝国大学を卒業した英才たちが官僚として大活躍をはじめた。戦後に至っては、吉田茂から佐藤栄作まですべて官僚出身の政治家が首相を務め、高度経済成長の実現に貢献した……。

■近代化の夢から醒めて

 日本の行政システムは、権限、財源、人事の面できわめて省庁単位の独立性が強い。村松岐夫教授は、この「省庁中心主義」が、省庁間の競争による政策のダイナミクスを生み出し、近代化というゴールに貢献した側面もあるという。

 しかし、西南戦争における西郷隆盛の死後、国民的な合意事項となった「殖産興業=近代化」は、21世紀の現在、もはや最重要課題ではなくなった。むしろ、少子高齢化、地域格差、環境保護といった近代化の負の側面が取り組むべき課題として横たわっている。

 「近代化」という大目的が消失した今、「省庁中心主義」は、統合的な政策を推進する上での阻害要因になりつつある。

 こうした状況を改めるには、小沢一郎の主張する政治改革も結構だろうが、国家公務員の新規採用の窓口を省庁単位ではなく人事院に一本化するなどのドラスティックな方法が取られても良い、と思っている。

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by priestk | 2004-10-16 02:25 | 政治・政治学書籍
手段を選ばない政治家と、目的を見失った政治家(書評:『政治家の誕生――近代イギリスをつくった人々』)
政治家の条件

 あらゆる時代、あらゆる国に「統治者」はいた。しかし、「政治家」がいるのは、民主主義社会だけだ……。

 これだけ聞いても、なんのことだか、よく分からないはずだ。今日は、下記の本を参考にして、歴史的に厳密な意味での「政治家」について考えてみたい。

塚田富治『政治家の誕生――近代イギリスをつくった人々』講談社、1994年

 政治家にあたる人間はどの時代にも、どの世界にも存在すると考える人がいる。また、軍人、独裁者、さらには君主すらも「政治家」の一種ととらえてしまう人もいる。

 しかし、著者によれば、こうした「統治者」と「政治家」の混同はゆゆしき問題である。プラトン、アリストテレスから現代英国の政治学者バーナード・クリックに至るまで、次の条件に当てはまる者だけが「政治家」として見なされたからだ。

政治家とは個別の価値や利害をこえた、多くの人々を納得させるような共通の目的を、自由な人々の同意や承認をえながら、可能なかぎり強権を用いることなく実現し、公的な世界を実現していく統治者である(210-211ページ)。
 

統治者の「暴力」と政治家の「暴力」

 この「政治家像」とその他の「統治者」を区別する最大の特徴は、「暴力」の用い方にある。中世の君主や金正日といった「統治者」にとって、暴力とは「最初の手段=プリマ・ラティオ」である。それに対して、民主主義社会の「政治家」は暴力を「最後の手段=ウルティマ・ラティオ」とする。

 統治の手段が「剣」から「ペン」へと大きく転換したのだ。だからこそ、根気の要る説得や、周到な根回しといった政治の技術がきわめて重要になる。

手段を選ばない政治家と、目的を見失った政治家

「小泉内閣は議会制民主主義を軽視している、まるで独裁政治だ……」

 野党幹部や抵抗勢力から、しばしば聞かれる批判だ。たしかに小泉首相は、55年体制のころの首相たちとは違って、野党と党内に対する説得や根回しをしていないようだ。

 この批判に、小泉首相はどう答えているか。うろ覚えだが、「いちいち意見を聞いていたら何も進まない」、「賛否はあるだろうが、やるべきことはやるしかない」、「最後はみんなきっとついてきてくれる」という意味の発言をしていたはずだ。

 先に引用した政治家の条件のなかの「……自由な人々の同意や承認をえながら、可能なかぎり強権を用いることなく……」という基準に照らせば、小泉首相の発言は多少暴論であることは否めない。しかし、それでも世論が大きく反発を感じていないのは、なぜだろうか。

 僕は、長年かけて培われた、野党と抵抗勢力に対する国民の不信感が、小泉流の強引なリーダーシップを許容させていると思う。

 政治家の条件をもう一度見てほしい。「政治家とは個別の価値や利害をこえた、多くの人々を納得させるような共通の目的」を実現するのが、最大の課題だ。それにもかかわらず、抵抗勢力と呼ばれる族議員や、55年体制下の野党は何をやってきたのか。

再び、著者の言葉を借りる。

構想力を働かせ公的なものに関連づける努力などはせずに、政治家は私企業や各種利益団体の個別的な利益を、むきだしのままの姿で実現しようと奔走する。本来ならば公的なものを考慮し、実現すべき政治家が私的集団の使い走りとなっているのである(218ページ)。
 結局、いまの日本政治を切り盛りしているのは、手段を選ばない政治家=小泉首相と、目的を見失った政治家=抵抗勢力・野党である――といったら、言いすぎだろうか。

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屋根裏部屋「???な首相!」
Shu's blog 雌伏編「規制目的二分論に見る利害調整過程の透明性確保」
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by priestk | 2004-10-10 00:17 | 政治・政治学書籍
政界のジジたちに聞け(書評:中曽根康弘・宮沢喜一・後藤田正晴・野中広務・塩川正十郎『時事放談1』)
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中曽根康弘・宮沢喜一・後藤田正晴・野中広務・塩川正十郎『時事放談1』講談社、2004年。

1957年から1987年まで三十年間つづいた長寿政治番組、時事放談。
この番組が、今年4月からTBSにて復活した(たしか日曜のえらく早い時間帯)。
司会は、毎日新聞の大ベテラン記者・岩見隆夫氏。
この本は番組の第1回から第10回までを対談風に文章化したものだ。

中曽根康弘、宮沢喜一、後藤田正晴、野中広務、塩川正十郎。
見ていただきたい、この濃い顔ぶれを。
平均年齢は一体何歳なんだろうか。
これが本当のジジ放談、なんちゃって!とでもいうつもりか。

彼らは政治の現場を離れているわけだから、この本に刺激的なインサイダー情報を期待するのは間違いだ。
そうではなく、「熟練の老医師らによる、日本政治の健康診断」と考えれば俄然面白く読めてくるはずだ。

彼らの信条や、現役時代の業績はひとまず脇へおこう。
この本から汲み取るべきは、数十年間にわたり政治の舞台に立った者だけが獲得できる、政治を視るリアリズムである。

僕の敬愛する後藤田正晴氏は言う。
(大正時代のシベリア撤退の困難さを例にだした後)「武装部隊なんていうものを海外に派遣するときは、必ずどういう場合に撤収するのかという計画がなければいけませんね・・・中略・・・先行きのことを考えないで、まあともかくアメリカがやってくれというならやるわい、ということではちょっとおかしいんではないか」。
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by priestk | 2004-09-27 05:13 | 政治・政治学書籍
小泉首相の妥協(書評:バーナード・クリック『現代政治学入門』講談社、2003年)
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政治を動かしていく上で、妥協は必然だという人たちがいる。
反対に、妥協するのは卑怯だという人たちもいる。
どちらの意見が正しいのだろうか。
この問題を、小泉政権の現状分析と、イギリスの著名な政治学者であるバーナード・クリックの著作をからめて考えてみたい。

現在の日本政治の風潮から判断すると、
妥協はあまり良いこととは思われていない気がする。

3年前、小泉首相が党内の反対をおし切って、毅然として
改革にとりくむ姿勢をアピールしたことに、国民は歓呼の声を上げた。
「抵抗勢力」への非妥協的態度が、大いに評価されたわけである。

実際、今月末に行なわれるはずの内閣改造を考えてみよう。
(可能性は低いが)もしも首相が党内に妥協的な人事を行なった場合にはどうなるか。
おそらくは、改革に対する裏切りということで、世論の総スカンを食らい、
内閣支持率を大きく減らすことになるとみていい。

では、政治的妥協とは、有権者への裏切りであり、不誠実さの表れにすぎないのだろうか。
もちろん、そうとは割り切れないだろう。

クリック教授は次のようにいう。
「思うに真の政治家がおこなう妥協は、少なくとも『少しでも物事を』良くするものであり、これに反して、時間稼ぎ屋は巧妙に問題解決を引き延ばすだけであって、その問題は後になってほかのひとびとが片づけるべきものとして残されることになる。つまり前者は政権を握ったうえでの活動を追いもとめ、後者はひたすら政権それ自体を追いもとめるだけなのだ」(44ページ)。

つまり、こういうことだ。
あなたが小泉首相の掲げる政策を支持しているのであれば、彼が自民党に妥協したとか、改革の姿勢が後退したように見えるからといって、支持をやめるのはナンセンスである。
それよりも、その妥協が改革を一歩でも進めるためのものなのかどうか、見極めることが大切だ。
あなたが小泉首相の掲げる政策に反対しているのであれば、小泉首相が妥協したように見えたからといって油断するな。取り返しのつかない第一歩を、彼は踏み出すかもしれない。

蛇足だが、僕の小泉首相に対する評価は、「嫌いだが評価できる政治家」である(この評価基準については、以前の記事『書評:魚住昭「野中広務 差別と権力」』を参照)。
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by priestk | 2004-09-22 03:30 | 政治・政治学書籍
バーとB'zとジャパニーズ・ポップスの起源(書評:兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』)
昨夜は友人とひさしぶりにバーへ行った。
迷路のような細い路地をぬけ、雑居ビルの二階へ。
照明はかなり暗いが、バーテンダーの方は明るく丁寧。
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気をよくして友人と飲み語らううち、話題はジャパニーズ・ポップス論へと展開する。

僕「ジャパニーズ・ポップスってさ、R&Bとかヒップホップとか海外の音楽を取り入れるけど、それはメロディを輸入してるだけなんだよな」

友人「そうそう、日本に輸入された途端、歌詞が甘いラブソングになって、女々しいんだよ。完全に演歌だな」

僕「『君がいなくては生きていけない~』ってのばっかだ。このメンタリティは世代を超えてるよ。サザン、ミスチル…」

友人「例外はある。B'z。彼らは意識的に演歌的な歌詞を避けて作曲してるんだ。『さまよえる蒼い弾丸』とか」

僕「でも売れているのはちがう曲でしょ」

友人「そうなんだ、『アローン』とか、ド演歌(笑)」

さて、ここで当然の疑問がわいてくる。
演歌的としかいいようがない義理人情を好む日本人の音楽体質は、
なぜ、どのようにして形づくられてきたのか。
この疑問へのとっかかりを与えてくれるのが、次の本である。

兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』日本放送出版協会、2000年。
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以下、著作の表紙の裏書から抜き出す。
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「浪花節の<声>が創る心性の共同体」
日本が近代国家としてスタートするにあたり、
天皇を親とする"日本人"の民族意識を形作ったのは、
近代的な法制度や統治機構などではなく、
浪花節芸人の発する"声"だった。
彼らの語る、忠君愛国、義理人情、無宿渡世のアウトローの物語は、
政治から疎外された人々を、異様な陶酔と昂揚に巻き込み、
無垢で亀裂のない心性とモラルの共同体へとからめとる。
浪花節の<声>という視点に立ち、
近代日本の成立を問い直す問題の書。
--------------------------------------------------------

以下は僕の感想。
日本人が、自分のことを「日本人」であると意識し始めたのはいつ頃か?
これは興味のつきないテーマである。
卑弥呼の時代から日本人意識はあったかもしれない。
ひらがなの発明が日本人としての自己意識の確立という説もある。
明治以降の戦争と新聞によって、大衆レベルにまで民族意識が共有化されたという説も有力だ。

これに対して、兵藤氏は、浪花節こそが日本人の民族意識を形成したと主張する。
なかなかの奇説だ。
しかし、次々と提示される資料を目の当たりにすると、説得力がある。

昭和7年にNHKが行なった第1回全国ラジオ調査の、聴者の好む番組ランキング
では浪花節の人気が第一位で57パーセントを占めたという。
浄瑠璃などほかの大衆芸能を大きく引き離していた。

さて、今日の話題は、ジャパニーズ・ポップスの演歌的体質の謎だった。
日本で初めて電波にのった大衆芸能のうち、もっとも好評を博したのが、浪花節である。
一度かたちづくられた民族の音楽的体質は、そうそう変化するものではないはずである。
であるならば、浪花節のもつエートス(社会的心性)は、戦後の演歌へと引き継がれ、
そしてまたジャパニーズ・ポップスへと流れ込んでいるのではないか。

こう考えると面白くない?
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by priestk | 2004-09-18 01:34 | 政治・政治学書籍
政治学「超」勉強法・実践編
レポートや論文のテーマが決まらない・・・。
学生・院生・研究者ならばだれしもが経験しうる無間地獄。
乏しい自分の体験から、苦しまぎれに二つの勉強法を編み出してみた。冗談半分でお読みいただきたい(下の本の画像は洒落で作ったモノで実在しないのであしからず)。
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ワザその一。「資料収集マニアの術」=実証的な研究スタイルをとる方へ。
トピックはなんでもいいので、数年前に起きた事件・事故の関連資料を集めまくる(雑誌記事、新聞記事、もしあれば公的機関の報告書など)。
関連資料を集めているうちに、集めること自体が楽しくなってくる。
資料収集を自己目的化させることができればしめたものだ。
集まった資料を時系列的に整理すれば、それでケース・スタディの材料は完成。

うまくまとめるコツは、「同時多発テロ」とか「BSE問題」のような大きすぎるテーマを選ばないこと。
先行研究を調べ、資料に目を通すのに一苦労する。
「1990年代前半におけるロサンゼルス○○地区の再開発政策」くらいがベター。
もう一つのコツは、「新しすぎず古すぎない」事件を選ぶこと。
新しい事件は、その全貌がつかみにくく社会的評価も定まっていないのでなかなか書きづらい。
古すぎると、資料を手軽に入手しにくくなってしまう場合がある。

ワザその二。「理不尽逆上の術」=規範的な研究スタイルをとる方へ。
最近、TVを観たり新聞を読んでいるとき、腹がたったことはないだろうか。
他人に思わず話したくなるくらい、腹立たしいトピックに思いあたればしめたものだ。
社会や特定の集団に対して抱く「おかしい!」「間違っている!」という感情は、けっこう自分の中で長続きするし、
まわりから「ヤツは問題意識をもっている」と評価してもらえるかもしれない。
今年のアメリカ政治学会のメインテーマだった「経済的不平等」や、
ジェンダー、人種・エスニシティ問題の専門家たちにとっては、
多かれ少なかれ、こうした感情が研究の原動力となっていると思われる。

うーん。「超」勉強法と銘打ったけど、やっぱり役に立たなそう・・・。
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by priestk | 2004-09-14 00:43 | 政治・政治学書籍
書評:魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社、2004年。
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 この本については、すでに多くの優れた書評があるので、気づいた点だけを簡単にコメントする。
(参考までに、僕がこの本を読むきっかけとなった野村進氏の書評のアドレスを。朝日新聞朝刊2004年7月25日付)。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=6326

○野中広務の政治スタンス
 利害が異なる二つの集団の境界線上にたち、双方の要請にこたえる「調停者」としての地位を独占し、権力を増大させる。対立が激しいほど、唯一のパイプ役として彼の地位は高まる。被差別部落と被差別部落外、自社さ政権における自民党と社会党、自公政権における自民党と公明党などのはざまで、野中は双方の信頼を得て、存分に力を振るった。

○野中広務の信念
 差別を乗りこえるには自助努力しかない。組織や行政に頼る部落民の姿勢を嫌い、部落問題を利権獲得に結びつけようとする組織を憎んだ。

○僕の野中広務評価
 政治家を評価するには、俗に二つの基準があるという。「好きか嫌いか」、「評価できるかできないか」だ。「好きだし評価できる」が最上、「嫌いだし評価できない」が最低、「好きだが評価できない」と「嫌いだが評価できる」は中間。僕の彼にたいする評価は、まよわず、「好きだが評価できない」である。

 評価できないのは、野中広務という政治家が、「政治家的天分過多にして、経世家的天分過少」(徳富蘆花が原敬を評した言葉)だからだ。つまり、当面の問題を臨機応変にさばく才能は天才的だが、大胆な構想や一貫した理念を掲げることが、あまりに少なかった。
僕が野中広務を好きなわけは、彼の持つ、他人の痛みに対する感受性である。エリート然とした最近の若手の政治家に、ぜひ見習ってほしい点だ。
記者クラブと「便宜供与」。
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by priestk | 2004-09-11 19:57 | 政治・政治学書籍
これぞ政治学の醍醐味!書評:大嶽秀夫『政策過程』東京大学出版会、1990年。
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 表紙は一見、「山と渓谷社」風だが、れっきとした政治学の著作。残念ながら僕は大嶽教授と直接の面識はない。しかし、僕に政治学の本当の面白さを教えてくれたのは、まぎれもなくこの一冊だ。
 何がそんなに面白かったのか。ひとことで言うと、それは「プラモデルを組み立てる楽しさ」である。大雑把に言えば、日本の政策過程研究は、これまでずっと欧米から完成された「オモチャのクルマ」=「政治学の理論や方法」を輸入してきた。そして、政治学者は輸入物ミニカーの美しさや新しさを鑑賞していたわけだ。
 ところが、大嶽教授は、このミニカーをバラバラに分解してしまったのだ。それだけでなく、どうすればミニカーを元に戻せるか、その組み立て説明書も書いてしまった。理論研究(鑑賞)を実証研究(組み立て)につなぐ扉が開かれたのだ。
 「書きたいテーマがあるのに、どう書いたらいいか分からない」。そんな方は、『政策過程』を手に取ろう。思わず「作ってみたくなる」アイディアがいっぱいだ。
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by priestk | 2004-09-11 02:56 | 政治・政治学書籍