日本政治の考察
by priestk
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クールな世論の覚悟を問う――邦人人質事件
救出に全力尽くすとの基本方針変わりない=邦人人質事件で小泉首相
Excite エキサイト : 主要ニュース

今回のイラクの邦人人質事件に関し、政府の対応を批判する声は少ない。
主要な全国紙の社説を眺めても、「自衛隊は撤退しない」という方針に対する反論はまったく見受けられなかった。

こうした国内世論が作られた大きな理由は、①「テロリストの要求には屈しない」という国民的コンセンサスの醸成、②被害者のあまりに軽率な行動、などが挙げられるだろう。これに付け加えて言えば、4月の人質事件を経て、③政府と国民の間に人質事件対応への「慣れ」が生まれてきたことも見逃せないのではないか。

前回の事件の経過を逐一見て、国民は、政府が出来ることと出来ないことが(ある程度)判ったように思われる。その結果、過剰な楽観論や悲観論がなくなって、現在のような「クールな反応」になっている可能性がある。

事件を冷静に見ること自体は、むしろ歓迎すべきことであろう。しかし、第4、第5の事件が起きたときも、こうした反応を維持できるかどうかはわからない。たとえば、自衛官や外交官の拉致事件が発生しても、世論はクールな反応で済ますことができるだろうか。あるいは、イラクや中東以外の場所で、もしも現職閣僚や大物財界人の拉致が起きたとしたら。

人間の命の重さに差はないはずだ。政府は、そして国民は、「テロリストの要求に屈しない」という原則を支持した以上、どんな地位にある人物が人質になっても、その姿勢をつらぬく覚悟があるのだろうか。

■追記
この記事は、イラクで香田さんと見られる遺体が発見される数時間前に書かれた。
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by priestk | 2004-10-30 02:11 | その他内政・外交
日本人人質事件、ふたたび
「テロに屈しない」と首相、拉致されたのは福岡の男性との報道も
Excite エキサイト : 主要ニュース

日本人が、イラクで武装グループに拘束された。
正午すこし前の民放報道によれば、人質となっているのは福岡県出身の24歳の男性。ワーキング・ホリディでニュージーランドに渡っていたはずが、今年7月から家族とも音信不通の状況が続いていたという。その後、ヨルダンのアンマンに滞在していたと見られ、ヨルダン人の知人に「イラクへ行きたい」と洩らしていたとのこと。

人質が本当にこの福岡出身の男性だとすれば、政府と世論の今後の反応に注目せずにはおられない。良くも悪くも、あのときの「自己責任論」ほど、日本と欧米の価値観の相違を際立たせたものはなかった。

ともあれ、今は人質となっている方のご無事を祈りたい。
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by priestk | 2004-10-27 12:33 | その他内政・外交
マタギ料理を食って考えた
今晩のおかずは、マタギから買ったイワナと鴨の串焼きと、マイタケの味噌汁。両親が福島県に日帰り旅行に行き、お土産に買ってきてくれたものだ。母によれば、車一台がやっと通れる崖沿いの山道を行ったところに、そのマタギの店がある。

ちなみに、僕の職場の同僚には福島出身者と宮城出身者がいるのだが、二人とも「福島にマタギがいるなんて聞いたことがない」と言う。一応、ネットで調べてみたところ、会津地方の只見町などには現在も健在だ。
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イワナと鴨は、最初から軽く燻してある。これを家で焼いて食べるのだ。まず、妻が焼いてくれたイワナをほおばった。ぎゅっと詰まった白身の肉。ほのかに香る燻製のような香り。鮎なんかメじゃないほど、旨い。食べごたえもある。鴨は、なんといっても皮が旨かった。肉は鶏肉と比べて固いが、噛めば噛むほど味が出る。

マタギと同じものを食べていると思うと、なんだか自分までマタギになったような気分になるから不思議だ。いや、僕の発想が単純なだけか。笑

マタギは、東北地方に暮らす、狩猟の民、山の民である。熊など大型獣の集団猟を得意とし、猟に際しては仲間内でのみ通じる独自の言葉を使う。また、農耕民族とちがう山神信仰と、厳格な戒律を持つ。

狩猟の生活。正直いって、経済的には楽ではなさそうだ。最近では、観光客相手の山のガイドとして生計を成り立たせているケースも少なくないと聞く。マタギの高齢化も進んでいる。

市場主義経済の波は、奥羽山脈の山深い集落にまで押し寄せてきている。江戸時代以前から続く、マタギという生き方。失われてしまうのは、そう遠い先ではないだろう。どうにも寂しい話だ。いろいろな生き方があっていい、いろいろな職業があっていい、と僕は思うのだが。
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by priestk | 2004-10-27 00:39 | 雑談
西園寺公望の皇室観
国家と伝統
 どんな国家であれ、暴力のみで人々を支配できるほどに強くはない。だから、国家はシンボルを必要とする。国旗と国歌、国民共通の言語と歴史、そして、国家元首。これらは、多かれ少なかれ、精緻に作り上げられた人為の産物だ。しかし、時を経るごとに作為性は薄れ、自然なもの、古いもの、愛着のあるもの、つまり、「伝統」として認識されるようになる。

 「伝統」は国家を安定的に存続させる上で、非常に重要な要素にちがいない。その反面、国民の意識の奥深くまで浸透した「伝統」は、「常識」として人々の思考と行動をしばるようにもなる。
 たまには、その「伝統」を再考してみることも、社会の知的風通しを良くするために必要だ。今回は、元老就任後、亡くなるそのときまで天皇側近として行動した、西園寺公望の皇室観を手がかりに、天皇制の「伝統」を考えたい。

西園寺の皇室観
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 西園寺公望(1849~1940)は、日本政治史を語る上で、興味の尽きない人物だ。10代で山陰道鎮撫総督に任ぜられ戊辰戦争に従軍してから、軍部ファシズムの台頭を憂いつつ91歳で没するまで、彼は独特のスタンスで政治と関わり続けた。西園寺は、晩年に彼の皇室観を次のように語っている。
大臣など、御前に出るのを遠慮しすぎる、日常の政務は、天皇と意見が異なった場合でも遠慮せず反対の理由を奏上して差し支えない、明治天皇の御世でも、たとえ天皇が反対されても、これはこうしなければならないと直言し、時には激論の後にご理解を得たこともある、そこに輔弼ということがあるのである、「君臣の礼、上下の別というものは、ただ思し召しに違わない、御言葉には皆従うということではない」
 岡義武氏によれば、このような一種「リベラル」な皇室観は、たしかに彼の出自――清華家の出身であり、明治天皇の遊び相手だった――に由来する部分が大きい。同時に、彼自身が早くから西洋文明に憧れ、公卿としては初めて断髪し、また洋装で参内した人物であることからも伺えるように、生粋の開明家だったことも影響している。

伊藤博文の皇室観
 薩長の元老たちにとって、天皇(皇室)は、藩閥政府の支配を正統化する最大のよりどころであった。特に伊藤博文は、「胸間に勲章をきらめかして勿体ぶって振舞うことが甚だ好き」だった。生来の名誉心の強い性格から、伊藤は厳粛荘重な「栄誉の体系」である皇室制度と華族令を整備してゆく。
 伊藤のこうした皇室政策に対して、西園寺は次のように評している。
わたしどもは、自然的にリベラールに皇室を敬うと共にもっと親しみのあるようにしたい考えであったが、伊藤の方は――全体、あの人は荘重文雅というようなことがすきでね――皇室に対しては言語から改める。わたくしと云っていい場合にも、臣がとか、臣博文がとか云う。伊藤の奏議を聞くには漢学の稽古からしてかからなければ――と陛下(明治天皇)が笑われた
 歴代天皇の信任がきわめて篤かった西園寺公望。その彼が語る皇室観は、教科書で教わる戦前の「天皇絶対主義」とは、かけ離れたものだ。 
 余談だが、最近、宮内庁の厳格な諸規制がすこぶる悪名高い。彼ら自身は、「伝統的」スタイルにのっとって自らの職責を果たしているだけだと考えているのだろう。しかし、「荘厳にして厳粛たる」皇室の伝統の根拠をたどれば、伊藤博文のパーソナリティーに行き着くに過ぎないのだ。

■参照・引用文献
岡義武『近代日本の政治家』岩波現代文庫、2001年。
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by priestk | 2004-10-26 02:42 | 天皇論
「災害弱者」が心配だ
新潟で震度6強3回=3人死亡、5人生き埋め
Excite エキサイト : 主要ニュース

今回の新潟地震。
僕の住む地域では、震度4程度の揺れだった。
地震発生時、僕がいたのは比較的空いた映画館。真っ暗な映画館での揺れが、こんなに薄気味悪いものとは思わなかった。
東京直下で今回の規模の地震が起きたら、地震そのものよりも、停電や情報不足によるパニックが心配だ。

さて、今年の風水害による死者・行方不明者は220名にのぼるという(『朝日新聞』10月21日付、「台風23号、死者67人 今年の風水害死亡・不明220人 」)。被害者の中には、足腰や視聴覚が不自由な、いわゆる「災害弱者」が少なくない。実際、台風23号の90名の被害者のうち、49名を65歳以上の高齢者が占めている。

各自治体では、町会・自治会や民生委員にお願いして、「災害弱者」の把握に努めていると聞く。また、ポットなどの家電製品に安否を確認するための発信機器を取りつけるなどの試みも始まっている。

自治体職員や消防関係の方々が、「災害弱者」を守ろうと努力されていることは重々承知だ。しかし行政の対応力には、おのずから限界がある。
高齢者がいる家庭では家族が、高齢者の多い地域では近隣住民が、いざという時のために備えておくことがとても大切になるだろう。
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by priestk | 2004-10-24 00:49 | 防災・危機管理論
是か非か、公務員の成果主義
 僕の友人・知人には、国や地方の公務員が少なくない。先日も後輩が故郷の県庁に奉職することが決まった。また、僕自身、自治体の職員の方々と一緒に仕事をさせていただく機会もある。
 そんな訳で、かれらの懐具合に直結しかねない「成果主義」の導入に、興味が湧いてしまった。この分野については全くの門外漢なのだが、素人考えをちょっぴり書いてみたい。

人事院が成果主義の導入を勧告
 今年8月、人事院は、国家公務員の給与制度に成果主義にもとづく査定昇給の導入を勧告した。下記の記事によれば、これを受けて自治体でも成果主義に関する検討が進められている。

成果主義、大半が模様眺め 秋田県以外は言及
Excite エキサイト : 政治ニュース
(自治体の人事委員会では)成果主義に否定的な見解はなく、「業績反映型の制度が必要」との内容が多いが、具体策については国や他自治体の動向を「留意」「注視」するといった模様眺めが目立つ。
 「成果主義に否定的な見解はなく」という一文は、僕にはむしろ意外だ。当然、反発が出るものと思ったからである。実際、専門家の間では、安易に成果主義を導入することに対して、懐疑的な意見が少なくない。

成果主義の弊害
たとえば、経済産業研究所上席研究員・鶴光太郎氏『「成果主義」は魔法の杖?』のご意見。
 昨年の末に公表された公務員制度改革大綱の中心テーマは公務員への能力・業績主義の適用であるが、これは上記の「成果主義」の限界を考えれば機能するとは考えにくい。なぜなら、公務員の場合、民間よりも更に成果を計測、立証することは容易でなく、また、組織として目指す目標が多岐に渡っているため、特定の目標に「成果主義」が適用されるバイアスの弊害は民間部門よりも大きいからである。
 それ以上に深刻なのは、必然的に予想される主観的評価の偏重がこれまで年功制、中央集権的かつ長期的な評価システム(ポストで報酬)のおかげで比較的無縁であった「ひいき」や「ごますり」をはびこらせる可能性があることである。そうなれば、評価の不公平感が強くなり、公的部門で特に要求されるような調整や協調を必要とする業務に支障をきたすのは明白である。

パブリックセクターの成果主義は理に適うのか?
Watson Wyatt Review 2003年5月号に掲載された、杉浦恵志氏「成果主義はパブリックセクターで使えるか:お役所的成果主義からの脱却」の見解。
評価を賞与の金額に反映させると、確かに「成果を出してくれ」という強烈なメッセージが伝わる。少額の格差でも、平等意識の強いパブリックセクターでは象徴的意味合いがある。だが、考えてみてほしい。民間企業の場合には、成果が出れば通常会社の利益に貢献しているはずであり、その利益を原資として貢献に応じて還元することは理に適っている。自治体では、企業や住民、観光客の誘致に成功して税収が増えた場合はともかく、成果と原資が並行して拡大することは、短期的には期待できない。成果を年度末に締めて金銭で報いることは、理屈がつかないように思われる。

問うべきは、目指す「成果」の中身
 重要なことは、行政職員の業績を評価することそれ自体ではないはずだ。たとえば、現行の業務が社会的に有用であるかどうかの判断をせず、その数字上での成果をうんぬんすることに意味があるだろうか。
 結局、成果主義は、何をもって行政組織の「成果」とするのかを決定しない限り、益少なくして害多き結果になりかねない。行政が目指すべき「成果」の中身を決定するのは、本来、政治の役割である。しかし、そういなっていないところに、成果主義が単なる総人件費抑制の手段に留まっている現状があるのだろう。

誤解をさけるために一言
 僕はなにも公務員の給与を下げてはいけない、といっているのではない。公務員の給与が民間と比較して多いのであれば、それは給与をカットして対処すればいい。問題としているのは、総人件費抑制の手段として、安易に成果主義を導入することだ。
 しばしば、「民間は大変な思いをしているんだから、公務員も我慢しろ」という意見を耳にする。僕も同感である。しかし、人件費を抑えるために成果主義を持ち込むことは、ちょっと思いとどまった方がいい、と思うのだ。
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by priestk | 2004-10-21 18:08 | その他内政・外交
三位一体改革と省庁中心主義(書評:Chalmers Johnson "Japan: Who Governs?")
省庁、自民族議員が反発 三位一体、改革の試金石に
Excite エキサイト : 政治ニュース

■公然と反旗を翻した文科相と厚労相

 郵政民営化が自民党内の反対にじりじりと押されつつあるのは周知のとおりだ。しかし、ここにきて、「三位一体改革」も暗礁に乗り上げつつある。
 三位一体改革に対する反発は、郵政民営化と比べて、質的に異なる様相を見せつつある……そう、「閣僚の反乱」だ。

 今月12日の所信表明演説。小泉首相は意気軒昂に、「構造改革の芽が大きな木に成長するか否かは、これからが正念場だ」と語った。それに続けて、
国・地方の税財源改革である三位一体改革については、先に地方団体がまとめた補助金改革案を「真摯(しんし)に受け止める」ことを表明し、約3兆円の補助金改革と税源移譲、地方交付税改革について「全体像を年内に決定する」ことを宣言した(『毎日新聞』10月13日)。
 ところが……。
 所信表明演説の同日、官邸では義務教育費と社会保障費の2項目をめぐって、関係閣僚と全国知事会など地方6団体代表の協議会が設けられていた。あろうことか、その席上で厚労相と文科省が、反「三位一体改革」のノロシを公然とあげたのである。

 尾辻秀久厚労相は、「国民健康保険(国保)、生活保護費、児童扶養手当について、国庫補助負担率の引き下げを代替案の中心とする方針を表明」し、三位一体改革の柱である地方への税源移譲を拒否。

 約8500億円の義務教育費国庫負担金を削減対象とされた文科省に至っては、「『代替の財源はない。(代替案を)出せるかどうか、これから検討したい』(中山成彬文科相)と改めて反対し、細田博之官房長官が求めていた省単独の代替案提示を留保。政府全体として、代替案を検討すべきだ」と息巻いている(『産経新聞』10月13日)。

■日本を支配しているのは誰か?

 「首相、官房長官、なにするものぞ……」と言わんばかりの閣僚たち。まるで、関東軍顔負けの独立割拠ぶりではないか。
 尾辻氏にしろ、中山氏にしろ、先月末に小泉首相によって大臣に任命されたばかりだ。それにもかかわらず、まるで100年前から役所の住人であったかのような顔をして、官僚の言うなりに「省益」を主張している。

 こういう事実を見るたびに、僕は次の素朴な疑問を持たざるをえない。
 「この国を統治しているのは、いったい誰なんだ?」
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"Japan: Who Governs?"という本がある。
 単刀直入なタイトルをつけられたこの本の著者は、『通産省と日本の奇跡』で有名なChalmers Johnson教授。
 彼が一貫して主張しているのは、日本の近代化は官僚の産物である、ということ。

 江戸時代、各藩が多数抱えていた実務型官僚が明治前期の殖産興業政策を実施する担い手となった。20世紀初頭ころには、東京帝国大学を卒業した英才たちが官僚として大活躍をはじめた。戦後に至っては、吉田茂から佐藤栄作まですべて官僚出身の政治家が首相を務め、高度経済成長の実現に貢献した……。

■近代化の夢から醒めて

 日本の行政システムは、権限、財源、人事の面できわめて省庁単位の独立性が強い。村松岐夫教授は、この「省庁中心主義」が、省庁間の競争による政策のダイナミクスを生み出し、近代化というゴールに貢献した側面もあるという。

 しかし、西南戦争における西郷隆盛の死後、国民的な合意事項となった「殖産興業=近代化」は、21世紀の現在、もはや最重要課題ではなくなった。むしろ、少子高齢化、地域格差、環境保護といった近代化の負の側面が取り組むべき課題として横たわっている。

 「近代化」という大目的が消失した今、「省庁中心主義」は、統合的な政策を推進する上での阻害要因になりつつある。

 こうした状況を改めるには、小沢一郎の主張する政治改革も結構だろうが、国家公務員の新規採用の窓口を省庁単位ではなく人事院に一本化するなどのドラスティックな方法が取られても良い、と思っている。

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by priestk | 2004-10-16 02:25 | 政治・政治学書籍
社説比較。武器輸出三原則見直しへの反応
ミサイル防衛、開発に移行 武器輸出3原則見直しへ
Excite エキサイト : 政治ニュース

新聞各社の反応――武器輸出三原則見直し
 10月4日に提出された、首相の諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」の報告書の内容は、今後の日米同盟の行方を大きく左右する。報告書の目玉のひとつである武器輸出三原則見直しについて、各紙の反応を社説からひろってみた。武器輸出三原則とは(外務省による解説)

朝日新聞、10月5日「防衛懇報告――期待はずれだった」
気掛かりは、武器輸出3原則の緩和をはっきり打ち出したことである…(中略)… 日本は米軍にとって重要な拠点だ。自衛隊と米軍の協力も緊密だ。だから日米の軍事的一体化を技術や兵器生産の分野でも進めようということだろう。しかし報告書には、今の世界で日米同盟がなぜそれほど大切なのか、日米の一体化を進めることが日本の平和に役立つのか、などについての検討がない。まず日米同盟の強化ありき、なのだ。

読売新聞、10月5日「安保懇報告書――新たな防衛力構築にどう生かす」
現状は、日米共同技術研究の一部を除き、事実上、全面禁輸となっている。ミサイル防衛の共同研究の進展を踏まえ、少なくとも同盟国の米国への武器禁輸を緩和すべきだとの主張はもっともだ。

毎日新聞、10月5日「安保・防衛懇談会――防衛構想の新たな理念見えず」
武器輸出3原則については、弾道ミサイル防衛(MD)システムの導入、共同技術研究を踏まえ「少なくとも同盟国たる米国との間で、武器禁輸を緩和すべきだ」としたが、実施するには平和国家としての理念をどう維持するかも含め国民的な合意が必要だ。

日本経済新聞、10月5日「『弾力的防衛力』は自衛隊の構造改革だ」
弾道ミサイル防衛の日米共同技術研究をにらんで米国との間では武器禁輸を緩和すべきだとする指摘は、それなしには共同開発の作業が進められない現実を考えれば当然だろう。ただし3原則をどこまで緩和するかをめぐっては様々な議論がある。秋の臨時国会での議論を要する。

産経新聞、10月5日「防衛懇報告書――更なる構想を期待したい」
 武器輸出三原則見直しに関するコメントはなし。報告書自体については「国益を踏まえた現実的な防衛力整備の構想が初めて公式に提起された」と肯定的に評価している。

■分析
 武器輸出三原則への反応を要約すると以下のようになる。

朝日新聞:否定的。日本の平和の役に立つのか
読売新聞:肯定的。同盟国アメリカとの共同技術開発は重要
毎日新聞:否定的。見直しには国民的f合意が必要
日本新聞:肯定的。共同技術開発は重要。三原則の緩和の程度については議論が必要
産経新聞:肯定的?(すくなくとも問題は感じていないはず)。

 朝日新聞・毎日新聞は、武器輸出三原則見直しや日米同盟が「なぜそれほど日本にとって重要なのか」と理念レベルでの論争を挑んでいる。これに対して、読売新聞・日経新聞は、ミサイル防衛共同開発は既定の方針とした上で、「いま具体的に何が出来るか」を技術論として論じている。つまり、賛成派と反対派の議論は、全くかみ合っていない。

 朝日・毎日が読売・日経の議論に乗るとすれば、どうなるのか。欧州など各国での兵器共同開発の成功事例・失敗事例を取り上げて、日米共同開発の問題点を批判したりするのだろうか。

 読売・日経が朝日・毎日の議論に乗るとすれば、日本とアメリカが「共通の利益」の上に立っていることを真正面から説明しなくてはならなくなる。これは、単純なようでいて一歩間違うと危険な作業だ。「アメリカの軍事戦略との一体化=アメリカへの従属」と捉えて抵抗感を示す人は、革新層だけでなく保守層のなかにも少なくない。

 しかし、現在の日米関係は最も理想的な姿なのだろうか。もし、そうではないとすれば、理想的な姿に近づくには何をすべきなのだろうか。僕も考えあぐねている。

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にぶろぐ「規定路線?」
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by priestk | 2004-10-12 09:55 | その他内政・外交
手段を選ばない政治家と、目的を見失った政治家(書評:『政治家の誕生――近代イギリスをつくった人々』)
政治家の条件

 あらゆる時代、あらゆる国に「統治者」はいた。しかし、「政治家」がいるのは、民主主義社会だけだ……。

 これだけ聞いても、なんのことだか、よく分からないはずだ。今日は、下記の本を参考にして、歴史的に厳密な意味での「政治家」について考えてみたい。

塚田富治『政治家の誕生――近代イギリスをつくった人々』講談社、1994年

 政治家にあたる人間はどの時代にも、どの世界にも存在すると考える人がいる。また、軍人、独裁者、さらには君主すらも「政治家」の一種ととらえてしまう人もいる。

 しかし、著者によれば、こうした「統治者」と「政治家」の混同はゆゆしき問題である。プラトン、アリストテレスから現代英国の政治学者バーナード・クリックに至るまで、次の条件に当てはまる者だけが「政治家」として見なされたからだ。

政治家とは個別の価値や利害をこえた、多くの人々を納得させるような共通の目的を、自由な人々の同意や承認をえながら、可能なかぎり強権を用いることなく実現し、公的な世界を実現していく統治者である(210-211ページ)。
 

統治者の「暴力」と政治家の「暴力」

 この「政治家像」とその他の「統治者」を区別する最大の特徴は、「暴力」の用い方にある。中世の君主や金正日といった「統治者」にとって、暴力とは「最初の手段=プリマ・ラティオ」である。それに対して、民主主義社会の「政治家」は暴力を「最後の手段=ウルティマ・ラティオ」とする。

 統治の手段が「剣」から「ペン」へと大きく転換したのだ。だからこそ、根気の要る説得や、周到な根回しといった政治の技術がきわめて重要になる。

手段を選ばない政治家と、目的を見失った政治家

「小泉内閣は議会制民主主義を軽視している、まるで独裁政治だ……」

 野党幹部や抵抗勢力から、しばしば聞かれる批判だ。たしかに小泉首相は、55年体制のころの首相たちとは違って、野党と党内に対する説得や根回しをしていないようだ。

 この批判に、小泉首相はどう答えているか。うろ覚えだが、「いちいち意見を聞いていたら何も進まない」、「賛否はあるだろうが、やるべきことはやるしかない」、「最後はみんなきっとついてきてくれる」という意味の発言をしていたはずだ。

 先に引用した政治家の条件のなかの「……自由な人々の同意や承認をえながら、可能なかぎり強権を用いることなく……」という基準に照らせば、小泉首相の発言は多少暴論であることは否めない。しかし、それでも世論が大きく反発を感じていないのは、なぜだろうか。

 僕は、長年かけて培われた、野党と抵抗勢力に対する国民の不信感が、小泉流の強引なリーダーシップを許容させていると思う。

 政治家の条件をもう一度見てほしい。「政治家とは個別の価値や利害をこえた、多くの人々を納得させるような共通の目的」を実現するのが、最大の課題だ。それにもかかわらず、抵抗勢力と呼ばれる族議員や、55年体制下の野党は何をやってきたのか。

再び、著者の言葉を借りる。

構想力を働かせ公的なものに関連づける努力などはせずに、政治家は私企業や各種利益団体の個別的な利益を、むきだしのままの姿で実現しようと奔走する。本来ならば公的なものを考慮し、実現すべき政治家が私的集団の使い走りとなっているのである(218ページ)。
 結局、いまの日本政治を切り盛りしているのは、手段を選ばない政治家=小泉首相と、目的を見失った政治家=抵抗勢力・野党である――といったら、言いすぎだろうか。

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屋根裏部屋「???な首相!」
Shu's blog 雌伏編「規制目的二分論に見る利害調整過程の透明性確保」
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by priestk | 2004-10-10 00:17 | 政治・政治学書籍
外国人単純労働者受け入れは「技術論」では済まない
単純労働者の部分解禁を=外相の諮問機関
Excite エキサイト : 主要ニュース
外相の諮問機関「海外交流審議会」(会長・熊谷一雄元日立製作所副社長)は5日、外国人の単純労働者の受け入れについて「十分に議論し、長期的に適応できるよう国民的合意の形成を図る」ことを政府に求める答申をまとめ、町村信孝外相に提出した。
治安悪化への懸念や日本人の雇用への影響に配慮し、婉曲(えんきょく)な表現にとどまっているが、事実上、職種などを限定した上での将来的な解禁を促す内容。熊谷会長は「課題は多く一朝一夕に進む問題ではないが、外国人労働者が日本社会で現実に担っている役割を直視する必要がある」としている(共同通信10月5日)

先日、外相の諮問機関が、外国人単純労働者の部分開放を求める答申を提出した。外国人労働者問題が先送りされ続けてきてから、はや15年ほどにもなろうか。1989年の入管法改正、翌年の日系人の就労緩和、93年の外国人技能実習制度創設。これら全てが、「いかなる制限のもとで外国人を受け入れるべきか」という「技術論」に終始していた。こんな技術論がまかりとおるのは、政府と財界の中だけである。

僕の最大の疑念は、今回の答申が、いったいどれほど国民の声を反映したものなのか、ということだ。特に、外国人単純労働者と直接の関係をもつことになる、企業、学校、病院、地域、自治体などの意見を。

国民的なコンセンサスなき外国人単純労働者受け入れは、差別・人権侵害と犯罪増加・治安の悪化という「負の連鎖」を招きかねない。

確かにアジア諸国とのFTA交渉も重要であろう。しかし、ここは首相や与党がリーダーシップを発揮して、受け入れの是非を国民に問わねばならない。「技術論」をめぐる省庁間の調整ではなく、「理念」をめぐる国民間の議論が必要なのだ。国民的コンセンサスの形成なき受け入れは、必ずや日本に「人種差別国家」の汚名を着せることになるだろう。ドイツやフランスの事例が、それを証明しているではないか。

■政治における「技術論」と「理念」については次のblogを参考にさせていただいた。
小さな目で見る大きな世界「非妥協的な争点」
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by priestk | 2004-10-06 18:15 | 外国人労働者論