日本政治の考察
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「女性天皇」の実現は時間の問題か
政府が皇室典範に関する有識者会議を設置
Excite エキサイト : 主要ニュース
政府は27日、「皇室典範に関する有識者会議」を設置することを決めた。来年1月に初会合を開き、秋ごろに報告書を取りまとめる方針。男性に限られている皇位継承を女性にも認めるかどうかなども検討する見通し。
 諮問機関の性格は、往々にして人選に表れる。顔ぶれから、誰がどんな役割を期待されているのか、なんとなく判ったりするものだ。というわけで「有識者会議」のメンバーを見てみよう。
岩男壽美子武蔵工大教授、緒方貞子国際協力機構理事長、佐々木毅東大総長、奥田碩日本経団連会長、久保正彰東大名誉教授、笹山晴生東大名誉教授、佐藤幸治近大法科大学院長、園部逸夫元最高裁判所判事、古川貞二郎前内閣官房副長官、吉川弘之産業技術総合研究所理事長
 まずメンバー10名の所属団体の属性から分類すると……

●政府関係、3名:緒方氏、古川氏、吉川氏
 JICAの緒方氏はもちろん政府系。古川氏は言うまでもない。吉川氏は経済産業省系の独立行政法人の理事長だ。

●研究者、5名:岩男氏、佐々木氏、久保氏、笹山氏、佐藤氏
 岩男氏は男女平等、女性へのエンパワーメントを主張される学者。佐々木氏は言わずと知れた政治思想の泰斗。久保氏は古代ギリシア、ローマ文学がご専門。笹山氏は日本古代史の研究者。佐藤氏は憲法学者。

●その他、2名:園部氏、奥田氏
 園部氏は政府系に入れてもいいかもしれないが、司法関係者ということで、一応「その他」に分類した。奥田氏は経済財政諮問会議のメンバー。ある意味、奥田氏も政府系かも。

 27日午前の情報では、「懇談会のメンバーは、学者や法律の専門家などで構成する予定」とあったにもかかわらず、実際の顔ぶれを見ると、天皇制や日本史の専門家が笹山氏だけということに気づく。ほかの研究者は、もっぱら法律関係の専門である。また、官邸のコントロールが効きやすい政府系のメンバーがそろっていることにも注目していい。

 さて、次はちょっと難しいが、メンバーの女性天皇に対するスタンスで分類してみよう。

●どちらかというと容認:緒方氏、古川氏、吉川氏、岩男氏
 「政府系」のメンバーは、皇室典範改正に前向きな小泉首相の意向を十分承知した上で「有識者会議」の加わったのだから、当然「容認」の姿勢を打ち出すと思われる。岩男氏は、男女平等の観点から容認と思われる。

●どちらかというと慎重:笹山氏
 笹山氏は記紀に関する著名な研究者であり、天皇制の歴史や伝統に通じていることから、典範改正には慎重姿勢を示す可能性がある。

●不明:佐々木氏、久保氏、佐藤氏、園部氏、奥田氏
 西洋政治思想を専門とされる佐々木氏、古代ギリシア、ローマに詳しい久保氏が、天皇制に対してどんな見解を持っているのか、不勉強なので存じ上げない。憲法と法律の専門家である佐藤氏、園部氏がどういう態度を取るのか、やはり一概には言えない。奥田氏についても、判らない。

 そもそも小泉首相が「女性天皇」を容認するような発言をしたことを知った上で、「有識者会議」に参加した人々なので、容認派が多いのは当たり前である。笹山氏は、一種のガス抜き役と考えてよいかもしれない。また、スタンスが不明なメンバーの中には、他の政府系諮問機関で小泉首相のために汗をかいている者も少なくなくない。そういう意味では、「女性天皇」実現に向けて、小泉首相が抜かりなく布陣を固めた――と見てもいいだろう。

 さて、女性天皇あるいは女系天皇に慎重な人々は、これを見て切歯扼腕しているかもしれないけれども、「天皇が天皇ではなくなってしまう」といった心配は要らないような気がしている。「血統原理」が消失した程度で、天皇制そのものが失われてしまうはずはない、と感じるからだ。それを言うならば、むしろ、戦後の「人間宣言」の方がはるかに重大な天皇制の「自己否定」であったはずだ。その瞬間、天皇制は、国家とも宗教とも(少なくとも公的には)切り離されてしまったのだから。

 それにもかかわらず、なぜ多くの国民が現在に至るまで天皇制を支持しているのか。なぜ、昭和64年1月7日のあの朝、小学5年生の僕は無意識のうちに涙を流したのか。天皇制は、日本人の心の深い部分を掴んでいる。これは、美しく、愛しく、そして恐ろしい現実である。
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by priestk | 2004-12-28 01:45 | 天皇論
憲法は万能ではない――『改憲論は必要か』を読む(2)
 前回に引き続き、憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』を題材としたい。
 執筆者が護憲派で固められた同書のなかで、ひときわ異色を放っているのが杉田敦氏の論文だ。タイトルは、「『押し付け憲法』は選びなおさないと、自分たちの憲法にはならないのではないか」である。

 しかし、こうした表題にもかかわらず、これまで延々と繰りかえされてきた「押し付けか、自由意志か」という議論に割かれているのは最初の5、6ページだけ。残りの14、5ページは、杉田氏独自の「コンスティテューション」観の説明に費やされる。しかも、氏の「コンスティテューション」観とは、これまでの護憲論・改憲論を「テキスト信仰」であるとしてバッサリ切って捨てる、なかなか熱い議論なのだ。うーん、エキサイティング。(^^)

 うまく要約する自信はないけれども、杉田論文のあらすじをご紹介しよう。

(1)「選びなおし」的な改憲論をどう考えるか

・現憲法の内容に不満は無いが、現憲法の起源にまつわる「ねじれ」を取り除くために国民投票で選びなおしたらどうか、という「選びなおし」的な改憲論を護憲派はどう考えるか。

・社会契約論的な説明法(「憲法は国民が自由な意思で選び取った。制定時多くの国民が熱狂的に歓迎し、その後も長いあいだ受け入れられてきた」)は、「そんなに社会契約が大事なら、もう一度きちんと選びなおそう」という意見に対し、契約論そのものによって反論できない。

・普遍主義的な説明法(「現憲法は人類にとって普遍的な価値を体現しており、直すべきところはない」)は、9条のような内容を含む憲法典が類例を見ないものであるため、説得力に欠ける。人民主権に立つかぎり、人民の多数派が求める改憲は止めることはできない。

(2)歴史を重視する「コンスティテューション」という発想

・英語のコンスティテューション(constitution)は、テキストとしての憲法典だけでなく、統治構造・政治体制も指す。とくにイギリスのコンスティテューションは、「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などの文書に加え、さまざまな慣習や判例を合わせた制度構造全体を含意する(フランス、ドイツの法典中心主義とは正反対の特徴)。

・歴史的にみれば、「憲法典をつくり直すというのは、一挙に政治体制をつくり直すという考え方と不可分であり、これはまさに革命の思想」(p.59)である。

・これに対し、イギリス流のコンスティテューションは革命ではなく歴史を重視する。日本でもイギリス流の考え方を定着させたい。「国会や裁判所だけでなく、それぞれの地域社会で、会社で、家庭で、人々の関係をどのようなものにするのかをめぐって、議論があり、対立があり、その結果として、ある種の制度や慣行が成立して行きました。(中略)白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」(p.61)。

(3)憲法は万能ではない

・護憲派は、立派な現行憲法があったおかげで戦後の日本はまがりなりにも人権・平和主義・デモクラシーが定着した、だから憲法を守るべきだというが、テキストだけ守っても実践が伴わなければ何にもならない。

・法律や慣習でどうにもならない問題が改憲で解決できるという発想は、主権国家が万能であるという幻想に依拠したもの。現実に生起している問題は、コミュニティのルール、自治体のルール、国のルール、そして国際法など諸ルールの相互関係の中で解決されるのであって、憲法の条文を書き換えて済むことではない。

 最後に僕から若干コメントをしたい。
 いかがだったろうか。正直に言って、違和感を覚えられた方も多いのではないかと思う。
 まず補足したいのは、杉田氏が「政治の領域」の問題として憲法問題に発言しているということである。これまで憲法はもっぱら「法の領域」で論じられてきた傾向がある。「法の領域」で問題となるのは、国家統治が法規範に従って進められているかどうか、である(swan_slabさんの記事「法の支配」を参照)。一方、「政治の領域」では、現実の利害調整のプロセスが問題となると言っていいだろう。その意味では、杉田氏が現憲法制定から60年におよぶ、憲法の血肉化のプロセスを重視したい気持ちはよく理解できる。

 ただ、憲法典が「それだけで何かを実現させる魔力を持っているわけでは」(p.60)ないにせよ、憲法が現実政治に及ぼす影響力の程度については議論の余地があるように思われる。杉田氏がいかにイギリス流のコンスティテューションを理想とし、その考え方の定着をはかろうとも、きわめて集権性の高い日本の法制度を考えれば、その試みは難しいものであると見なさざるを得ない。

 このように若干の不満点は残るものの、杉田論文は、政治学者による独創性ある憲法論として評価できると思う。改憲が秒読み段階に入ったと思われる現在、「白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」という指摘は、「ポスト改憲時代」の指針を与えてくれるものだ。

 改憲後、たとえ集団的自衛権の行使が認められたとしても、政府が国民に対して海外派兵の正当性を説得しなくてはならない事実に代わりはない。問題は、国民の側に、政府の不当な行為に声を上げるだけの意思があるかどうかだ。

 同様のことは政府にも言える。自衛隊に関わる憲法問題をクリアしたところで、日本の置かれた外交・安全保障環境が劇的に変わるわけではない。米国、中国、そして北朝鮮との関係を、日本により有利な形に持ってゆけるかどうかは、政府の具体的な行動にかかっている。
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by priestk | 2004-12-26 03:35 | 政治・政治学書籍
『改憲は必要か』を読む(1)
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 今年10月に岩波書店から出版された憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』をざっと読んだ。加藤周一氏の「まえがき」によれば、この本は「今広く世間に行なわれている改憲論の要点について、その背景を説明し、そこに含まれている問題点を指摘」したものだ。
 章立てはQ&A形式になっている。たとえば、樋口陽一氏による第1章のタイトルは、「いま、憲法九条を選択することは、非現実的ではないか」であり、これに応答するかたちで議論が進められていく。参考までに各章のタイトルと執筆者名を挙げておこう。

1 いま、憲法九条を選択することは非現実的ではないか(樋口陽一)
2 国連は無力なのだから、国連中心の平和主義には意味がないのではないか(最上敏樹)
3 「押し付け憲法」は選びなおさないと、自分たちの憲法にならないのではないか(杉田敦)
4 憲法といっても法の一つなのだし、改正の手続だって規定されているのだから改憲にそんなに慎重でなくてもよいのではないか(阪口正二郎)
5 憲法を改めれば、自由や人権の状況も改善されるのではないか(阿部 浩己)
6 市民がどれだけがんばっても、しょせん戦争は止められないし、世界は変わらない。憲法九条も変えられてしまうのではないか(北沢洋子)
7 現実と乖離した憲法は、現実にあわせて改めた方がいいのではないか(水島朝穂)

 執筆者の顔ぶれからもうかがえるように、同書では、全体的にオーソドックスな護憲論が展開される。代表的な護憲論者が、9.11後、イラク戦争後の世界をどう見ているか、その点を把握するという意味では、読んでも損はないと思う。

 ただ、僕に法学や憲法学の素養がないためかもしれないが、読んでいて多少の違和感がある。それは、同書の論文の中には、「現状批判の論」としては適切であっても、「問題解決の論」とは言えないように思われる議論が散見されることだ。

 たとえば、最上敏樹氏は、米英がイラク攻撃に際して国際社会の共同決定という手続きを経なかったことは、「規範の弛緩であり、法の支配の退行」であるという。そして「国連の集団安全保障が不完全であるなら、それを見捨てるのではなく、欠陥を補修し、より実効的なものにする工夫が必要」だと論じる。まことにもっともな意見だと思う。

 それでは、いったいどうすれば実行力ある国連集団安全保障を実現できるのか。最上氏は、国際安全保障を単独行動主義から切り離し、法的責任も明確な国際共同行動とすべきだと説く。
 しかし、これでは「目標」と「手段」が同義反復しているのではないか。極端なことをいうと、目標だけ示して、具体的道筋を描くことを放棄しているようにさえ見える――もっとも、これは法学や憲法学が法的妥当性を論ずる規範の学である以上、やむをえないことなのかも知れないが。

 同様の不満は、樋口陽一氏の論文についてもいえる。
 同氏は、「九条をめぐる改憲と護憲の最大の分かれ目は、『正しい戦争がありうるか』という問いに肯定で答えるか否定で答えるか」にあると主張する。その上で、「正しい戦争がある」とする意見の者は、「『正しさ』を見分けようとする真剣さを示してはじめて、『正しい戦争』そのものを否定する立場と対等に論争する立場に立てる」と述べる。

 樋口氏が見るところ、日本政府はイラクへの自衛隊派遣の「正しさ」について、「いざというときにアメリカに守ってもらえなくなる」以上のことを説明していない。
 また、人道のための武力介入を行うために改憲すると主張するのであれば、難民受け入れなど国内の人権・人道政策を充実させた上のことでなければおかしいではないかという。
 このような樋口氏の主張は、決して全面的に否定できるようなものではない。むしろ、もっともだと思う。

 しかし、結局ここでも問題に思うのは、この主張を政策論として見た場合の実効性の無さだ。樋口氏は、改憲論者の側が「正しい戦争」を行えるようにするため改憲案を提起した後に、論争を行い、国民が選択すればよいのだという。

 うーん、ちょっとおかしくないか。護憲論者が、いくら正しい論争をしようじゃないかと呼びかけても、その条件が整うことは永遠に無いと思われる。改憲論者は「正しい戦争」の是非を論じたいがために改憲論を主張しているわけではないからだ。
 この社会は、正しい論争を通じて正しい答えを導き出すことを自己目的化して動いているわけではない。むしろ民主的な討議のプロセスは、数多ある社会問題を解決するための手段だと思うのだが。

 僕自身は心情的には護憲論に共感を覚えるだけに、こうした法学一辺倒の護憲論にはもう少し説得力を増す工夫をしていただきたいと思う。

 さて、僕なりに興味を引かれた論文もあった。第3章の杉田敦氏の論文である。杉田氏は、護憲と改憲という対立軸そのものが不毛であると断じており、他の執筆者とはやや異なる姿勢を打ち出している。これには、氏が政治理論を専門とされる政治学者であることもかかわっているのかもしれない。
 長くなるので、杉田論文については次の記事でご紹介させていただきたい。
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by priestk | 2004-12-21 18:22 | 政治・政治学書籍
マキアヴェリと経済制裁
<拉致問題>期限を区切って回答求める 政府・与党が調整
Excite エキサイト : 政治ニュース

 政府・与党間で、12月13日、「期限付き最後通告」案が急浮上してきた。武部勤幹事長の言葉によれば、これは、「期日を設けて最後通告をし、納得できない回答の場合は即刻、経済制裁を発動」する、というものである。回答期限は来年3月が目処とされる見通しだ。

 たしかに、来年3月までの「猶予期間」を設けることで、来年1月下旬に発足する第2期ブッシュ政権の動向を見守っている北朝鮮の出方を探ることができるだろう。米国が動き始める前に日本単独の経済制裁を発動して、北朝鮮に6か国協議再開拒否の口実を与えたくない――という外務省の配慮がにじむ。

 また、「期限付き最後通告」案には、世論の沈静化を図ろうとする政府の意図も伺える。3ヶ月の冷却期間を置けば、熱しやすく冷めやすい国内世論が、どう変わるか判らないからだ。
 一方、経済制裁推進派議員にしてみても、制裁実施後のビジョンが必ずしも描けているわけではない。制裁が効果を上げないだけならまだしも、米国や韓国から批判をうけるようなことになれば、推進派議員は難しい立場に追い込まれてしまう。
 今回の「期限付き最後通告」案は、そんな政府と与党にとって、格好の「落とし所」だったのではないか。

 このように、「期限付き最後通告」案は、国内対策として考えれば無難な方法といえる。しかし、外交方針として適切なのかといえば、かなり心もとない。実際に、「政府内では『完全に満足できる回答は極めて難しいだろう』(外務省幹部)との見方が支配的だ」という。
 もしも北朝鮮が妥協を見せず、かつ国内世論も軟化しなければ、当然、政府は経済制裁を発動せざるを得なくなるだろう。そういう意味では、「期限付き最後通告」案は政府にとって諸刃の剣である。

 話はがらっと一転するが、僕は、経済制裁の是非については一貫して「政策論」の立場から論じてきた。つまり、僕自身が政府の政策決定者だとして、「どうすれば最も合理的に問題を解決できるか」という観点だ。ここでは、「経済制裁は、役に立つかどうか(追記:そして、そのタイミングはいつか)」が問題となる。
 これと対置される立場として、「正義論・道徳論」として経済制裁の是非を見ることもできる。それは、「どのように問題は解決されるべきか」という観点だ。ここでは、「経済制裁は、正義に適うかどうか」が問題となる。
 とすると、経済制裁をめぐって四つの立場があることになるだろう。

①経済制裁は「役に立つし、正義に適う」
②経済制裁は「役に立つが、正義には適わない」
③経済制裁は「役に立たないが、正義に適う」
④経済制裁は「役に立たないし、正義にも適わない」

 僕は、経済制裁の発動は、現段階では拉致問題解決の「役に立たない」と考えている(追記:一方で、国際的環境が整えば、経済制裁は「役に立つ」と考えている)。その理由は繰り返し述べてきた。しかし、制裁発動が「正義に適う」のかどうかは、未だに断定できずにいる。
 拉致という非人道的な「国家犯罪」を犯した国に、経済制裁を実施し人道支援を凍結することは、「正義に適う」とも思う。一方で、こうした「正義に適う」報復の連鎖が、いま地球上に存在する戦争・紛争・抑圧の原因の一つであることも理解できる。

 マキアヴェリはこう言う。
まさにとられる解決策によって国家の安全が左右されるような場合には、正義か不正義か、人道的か残酷か、栄光か恥辱かなどということを考慮する余地はない。そうではなくて、ほかのすべての考慮を排して、「どの道がこの国の生命と自由を救うのか」ということのみを問うべきなのである*1。
 マキアヴェリですら、「国家の安全が左右される」緊急事態以外では、正義や人道や栄光は顧みられる有効な手段であると考えていることに注目したい。
 日本は今、「まさにとられる解決策によって国家の安全が左右されるような場合」に直面しているのだろうか。そうであれば、あらゆる手段を検討しなくてはならない。そうでなければ、ぎりぎりまで、政府には「正義に適う」道を模索して欲しい。

*1 バーナード・クリック『現代政治学入門』講談社学術文庫、2003年、33ページ。
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by priestk | 2004-12-14 02:55 | 日朝関係論
日本における個人主義批判の思想的伝統
 サラリーマンサバイバル日記さんの記事、「『立憲主義』自民を包囲/衆・参の憲法調査会、論議最終盤へ」を拝見して、ひとつ気がつくことがあった。結論から言えば、日本には「個人主義批判の思想的伝統」があるのではないか、ということになる。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」という考えが自民党内に強まってることについては、たびたび報じられている(参考)。僕自身は自民党の認識にはかなり違和感を覚えていて、以前の記事でも取り上げてきた。

 普通、自民党の憲法観は、「法学のイロハをしらない」とか「立憲主義の否定」という言葉で批判される。たしかに、法律家の立場からすればもっともな批判である。しかし、一見、思いつきの域を出ないようにさえ見える自民党の「個人主義批判」の思想的な根っ子は、かなり深いのではないかと思うのだ。

 結論めいたことを言うと、「行き過ぎた個人主義」を批判する思想的立場は、昭和12年に文部省が編纂・刊行した『国体の本義』の思想と酷似している。

 『国体の本義』は、大正デモクラシー以降、定説的な地位を占めていた美濃部達吉の天皇機関説を否定した「国体明徴運動」のイデオロギーを確立したもの、と言えるだろう。一部の右翼的な団体のものでしかなかった国体思想が、『国体の本義』をもってして、日本の公定イデオロギーとされたのである。

 また、同書が著された昭和12年という年も気になる。昭和12年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。翌昭和13年には国家総動員法が制定されている。つまり『国体の本義』は、本格的な戦時体制へ移行するにあたって、日本社会の思想的引き締めを図ったものと見ることが出来るかもしれない。

 それはともかくとして。
 同書の「結語」には、以下のような一文がある(以下、引用は近代日本思想史研究会『天皇論を読む』講談社現代新書、2003年)。

明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあったが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亘って種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以って広大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。
 ここで言う、西洋文明の「醇化」とは、「その本質である『個人主義』を切り捨て、『自然科学』や『精神科学』『及びその結果たる物質文化の華やかな発達』を輸入すること」を指している。手っ取り早く言えば、「和魂洋才」である。

 また、同書は、人間とは、現実の存在であると同時に「永遠なるものにつらなる歴史的存在」であって、「国民精神に基づいてその存在が規定される」という。つまり、個人は単独で存在しているのではなく、あくまで「国民」という有機的に結びついた存在の一部だと規定される。つまり、独立した個々人が集まって社会を構成していると見る、社会契約説的な社会観を否定しているわけである。

個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて、全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に走る。ここに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。
 このように、国体思想を、西洋思想の一バリエーションとしてではなく、西洋思想よりも一段高いレベルにあるものとする考え方は、「近代の超克」を図った当時の思想家に共通している。

 もちろん、現在では「国体思想」そのものの優位性を信ずる人はごく少ないだろう。しかし、近代立憲主義の掲げる「普遍性・非歴史性」を顧みることなく、国体思想の思想的柱である「国民性と歴史性」をごく自然に受け入れる自民党の姿勢は、『国体の本義』の精神と通じるものがある。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」。近所の口うるさいジイサンがため息まじりにもらすようなありふれた言葉だが、その根っこは、結構深いのかもしれない。だとすれば、立憲主義者の側も、教科書どおりの反論をするだけでなく、もっと本腰を入れた議論を行なわなければいけないのではないか。
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by priestk | 2004-12-10 20:30 | 憲法論
遺骨は別人――戦略的な北朝鮮外交を
北朝鮮から持ち帰った遺骨は横田めぐみさんとは別人=官房長官
Excite エキサイト : 主要ニュース

 許しがたいことではあるが、大方の予想通りの結果だったのではないだろうか。そもそも北朝鮮のような独裁国家が拉致の事実を認めたこと自体が「奇跡的」なのである。

 北朝鮮は、もはや拉致の真相に迫る情報を出すつもりはないのではないか。「真相」がどのようなものか、僕に知る由も無いが、それはおそらく日本の世論を激怒させるものだろうと思われる。情報を出しても出さなくても、日本の反発を買うのであれば、いっそ嘘の情報でも出して時間を稼ごう……そんな北朝鮮の意図が透けて見える。

 政府は、12.5万トンの食糧支援の見合せと、中国を通じての北朝鮮に対する厳重抗議を行うという。北朝鮮の約束した調査が極めて不誠実であることが判った以上、やむを得ない措置だろう。

 ただし、日本単独の経済制裁発動には慎重を期すべきだ。NHK10時のニュースで家族会事務局長の蓮池透氏が主張されていたように、経済制裁の発動は「目的」でなく「手段」に過ぎない。蓮池氏は、国際的な北朝鮮包囲網を形成したり、あるいは経済支援をちらつかせて北朝鮮の妥協を引き出すことも重要であると指摘されていた。つまり、戦略的な北朝鮮外交の必要性を主張されていたわけである。この意見に僕も全く同感だ。

 以前の記事で繰り返し述べてきたように、北朝鮮を追いつめるためには、国際的包囲網の構築が不可欠である。しかし、アメリカは融和的な「ボールド・アプローチ」も選択肢に入れている。韓国や中国は現段階では経済制裁を考えている様子は無い。このような国際環境の中で日本だけが突出すると、6か国協議は日本抜きの「5か国協議」になってしまいかねない。

 拉致問題解決の手段として、何が最も適切なのか。『ニューズウィーク 日本版』12月1日号によれば、慶応大学の小此木政夫教授は、「今のところ、拉致問題を解決する手段はない。解決することがあるとすれば、それは核問題で北朝鮮が妥協する気になったときだろう」と言う。

 専門家の意見は傾聴すべきだが、静観する以外にも日本政府が積極的に打つ手はあるのではないか。たとえば、拉致問題を国際的にアピールすることや、対北朝鮮経済支援の撤回をちらつかせて、アメリカや中国により強硬な姿勢を求めることだ。

 いま、日本と北朝鮮は、壮絶な外交戦を繰り広げている。一時の感情に流されて、戦略を誤るようなことがあってはならないと思う。
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by priestk | 2004-12-09 00:25 | 日朝関係論
経済制裁とイラン核問題の教訓
<町村外相>北朝鮮への経済制裁 発動は慎重に判断すべき
Excite エキサイト : 政治ニュース
 町村信孝外相は5日のテレビ朝日の報道番組で、北朝鮮に対する経済制裁の発動について「なかなか難しいのは、制裁をやれば、彼らは『日本がそういう制裁をとっているのだから』と言って、6カ国協議などの会談に応じてこないなどの妙な口実を与えてしまうことだ」と述べ、発動は慎重に判断すべきだとの考えを示した。
 自民党の安倍晋三幹事長代理らが制裁発動を求めていることについては、町村外相は「単純にすっといけばいい、ということではない。しかし選択肢として持っているのだから、使うべき時は使う」と述べた。
 無難な認識だと思う。経済制裁は、北朝鮮経済にいくばくかのダメージを与えると思われるものの、それが拉致問題の解決につながるという見通しはない。
 「ニューズウィーク日本版」12月1日号によれば、北朝鮮の貿易総額に占める対日取引の割合は2003年度8.5%にすぎない。おまけに北朝鮮はもともと他国への経済依存度がかなり低く、GDPに占める貿易額の割合は10%~15%と見られている。したがって経済制裁の発動は、日本国内世論のガス抜きにはなっても、拉致問題を解決する決め手とは言いがたいように思われる。

 とは言え、僕は経済制裁というオプションを頭から否定するつもりはない。実際、制裁推進派と慎重派が裏で手を握りながら丁々発止を演じて見せることは、北朝鮮を牽制する意味で有効だと考えている。「与党の声を抑えきれなくなっている。少しは譲歩してくれないと世論も持たない。本当に制裁することになってしまうぞ・・・」と日本から北朝鮮に圧力をかけるのだ。もっとも、この「演技」が行き過ぎると、国内世論が過熱化して、政府も経済制裁発動を引くに引けない状態に追い込まれる可能性はあるのだが。

 経済制裁が現実味を帯びてくるとすれば、6か国協議が不調に終わり、アメリカが強硬路線に転換した時だろう。実際、今回のイラン核開発問題でも、アメリカは経済制裁含みで国連安保理への付託を狙っていた。

 ただ、ライス長官の登場で、アメリカの北朝鮮外交が強硬化することを期待する見方もあるが、その可能性はあまり高くないのではないか。二つ理由がある。

 一つは、先月25日、2年前の米朝高官協議でアメリカが示した「ボールドアプローチ(大胆な提案)」の全容が判明したことだ。11月26日付「朝日新聞」朝刊の記事「米、北朝鮮に包括支援提案 02年協議、核放棄の見返り 」によれば、「ボールドアプローチ」は、核放棄と見返りに国家建設と国際社会復帰への包括的な支援を約束するものとされる。

 この命名者はライス氏本人であり、「この時期に複数の高官が詳細を語った背景には、第2期ブッシュ政権の発足を前に北朝鮮の出方を探る意図がうかがえる」という。つまり、ライス長官のオプションの中に、この融和的方針が含まれているのはほぼ確実と言うことだ。

 もう一つの理由は、ここにきてイランの核問題がこじれていることだ。イランがIAEA理事会決議に従いウラン濃縮関連活動を停止したことで、アメリカ単独の安保理決議付託というシナリオは当面回避された。しかし、イラン前大統領のラフサンジャニ最高評議会議長は12月3日、ウラン濃縮関連活動停止は最長6カ月間だと述べており、英独仏3カ国との経済・技術支援交渉の首尾によってはふたたび問題がぶり返す怖れがある。

 イランの核問題を放置すると、イランへの対抗的措置として近隣中東諸国の核開発が活発化し、それに対するイスラエルの先制攻撃が起こりうる(12月6日付『朝日新聞』朝刊の記事、「中東潜む『核連鎖』」を参照)。イランの核問題は正念場を迎えている。第2期ブッシュ政権にとって、北朝鮮問題を当面措いてでも取り組むべき課題となるかもしれない。

 では、いま、日本は北朝鮮問題にどう取り組むべきなのか。ヒントになるのは、今回のイラン問題で、アメリカの強硬路線が頓挫した原因を考察することだ。11月30日付『毎日新聞』記事「IAEA:イラン 米、国内保守派の圧力回避に成功」によれば、「イランがとった戦術は、中国、ロシアの理解を求めて安保理付託の場合に備えながら、欧州との交渉を継続して米欧を分断させることだった」。その結果、イランは、経済権益をちらつかせて中露を取り込み、米欧の温度差につけ込んで、まんまと原子力の平和利用の権利をIAEAに認めさせた。

 要するに、もっとも警戒すべきことは、関係国の足並みの乱れなのである。いま6か国協議関係国は、当事者である北朝鮮をのぞき、協議の早期再開で一致している。また6か国協議を、最も重要な交渉の舞台と位置づけている。Tomorrow's Wayさんの言葉を借りれば、6か国協議は対北朝鮮「ABC包囲網」だ。日本は、これを最大限活用して、北朝鮮をギリギリと締め上げていくべきではないか。

 拉致被害者家族の皆さんの心情を考えれば、大変忍びないのだが……時間がかかっても、日本は関係国と共同歩調を取りつつ、同時に拉致問題への国際的関心を高めながら、粘り強く交渉していかなければならないと思う。日本単独で経済制裁を発動することは、むしろ北朝鮮にとって思う壺となってしまう可能性あることを認識する必要がある。
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by priestk | 2004-12-06 13:10 | 日朝関係論
あやしき人々
 僕はpriestとして糊口をしのいでいるわけだが、残念ながらはっきり申し上げて霊感のようなものはない。幽霊を見たこともなければ、超常現象を体験したこともない。
 よく、あたかもpriest自身が神秘的な能力を持っているように誤解される向きがある。しかし、少なくとも、日本の伝統宗教に属するpriestにはそのような力はないと言っていい。霊力を発揮されるのは神仏ご自身であって、神主や僧侶ではないのである。
 もちろん、priestの中には、長年の修行によって得た豊かな教養や味わい深い哲学、そして一種のカリスマ性をお持ちの方はいらっしゃるのだろうけれども、それは決して神秘的な「何か」ではない。

 さて、霊感に縁の無かったはずの僕が、先日、総武線で不思議な人物と遭遇した。
 時刻は昼過ぎ。冬晴れのよく晴れた日であった。車内はわりと混んでいる。僕はつり革にぶら下がり、高橋克彦著『炎立つ』の最終巻を読んでいた。Shu's blog 雌伏編さんの記事で以前紹介されていた本で、これがめっぽう面白いのだ。

 黙々と読み進むうち、ある駅で僕の目の前の座席が空き、黒っぽいコートを着た女性が座った。僕の右手の『炎立つ』ごしに、女性と目が合った。年のころは30代後半か。色が白い。ごくごく尋常なご婦人であった。もちろん、覚えのある顔ではない。

 数分後、異変が起きた。僕の両足の靴の先端に、なにやら感触がある。見ると、その女性の靴が僕の靴の上にちょこんと載っている。しかも、本人はそのことに気づいているのかいないのか、一向に自分から足をどける様子が無い。仕方ないので、僕は何も言わずにそっと両足を動かした。女性はこちらを見るでもなく、じっとしている。

 まあ、こんなこともあるだろう――。それから再び僕は『炎立つ』の世界に没入した。ところが、その数分後、今度は僕の右足に女性の靴が載った。ここで僕はちょっと疑念を抱いた。ひょっとして知り合いか?知り合いが気づかせようと思ってふざけているのか?

 相手の顔を見た。やはり、どう見ても知らない顔だ。女性は眠るでもなく前を見ているが、僕と目は合わせない。普通ならここで声をかけるところだが、僕はこのままいつまで女性が靴を載せているつもりか試してやろうという気になった。

 じりじりと時間が経った。もはや『炎立つ』どころではない。文字が頭を素通りする。ほんの1、2分で女性は靴をどけたが、おそろしく長い時間に感じた。

 これは、ちょっと変な人にちがいない――。そう思い定めて、精一杯、両足を女性から遠ざけた。ところが、女性は座ったまま足を伸ばし――今度は僕の左足に靴を乗せた。その瞬間、肌があわ立った。思わず女性の顔に目を向けると、今度は向こうもこちらをしっかりと見つめている。僕が声を上げようとした途端、電車が駅に着き、女性は降りた。

 冷静になって考えれば――女性は一種の逆セクハラをしていただけかもしれない。妻や妻の妹はそう言って笑う。しかし、電車を降りた直後、僕は父から以前聞いた話を思い出していた。

 ある日、父が地下鉄に乗っていると、目の前に座った老人が立ち上がり、声を掛けてきた。
「旦那、旦那みたいな人が、そんなものつけてちゃいけませんよ・・・」。そう言って、しきりに父の顔に手を伸ばし、何かをつまみ取ろうとする。父は慌てて車窓に映る自分の姿を確認したが、何もついてはいない。「何にもついてないよ、やめてよ」と言う父に、老人は「そんなのつけてちゃおかしいですよ」と同じ言葉を繰り返す。いい加減頭にきた時、老人はある駅で降りた。

 変な人がいるもんだ――そう思いつつも、父は乗り換えのため新宿駅で地下鉄を降りた。そして売店でカップ入りのコーヒーを買い、乗り継ぎの電車が来ているホームへと急ぐ。
 そのとき、一人の女性が「ちょっとちょっと」と父を呼び止めた。「なんですか?」「コーヒー、こぼれてますよ」「えっ?」カップの入ったビニール袋を見ると、穴が開いているのか、たしかにコーヒーが滴って、床まで汚れていた。時間が無いので、やむをえずそのまま電車に飛び乗った。
 やれやれ――。と、思いながらビニール袋を見る。ところが、コーヒーは、全然こぼれていなかった――。

 この二つの出来事を、父は次のように解釈した。実はこの日は、あるお社のお供え物を取り替えなくてはいけない日であったが、父はそれを失念していた。それゆえに、神仏があのような形で注意を促されたのではないか――と。

 仮に父の話を信ずるとすれば、僕が電車で出会った奇妙な女性も、何かメッセージを伝えようとしていたのではないかという気がしてくる。そんなわけはない、と否定したいのだが、一度このように考え出すと気になって仕方がなくなる――結局その日の帰り、僕は実家に立ち寄り、お賽銭を投げることとなった。
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by priestk | 2004-12-05 00:42 | 雑談
だれが外国人労働者受け入れのコストを負担するのか
 オランダという国は、宗教・言語・民族ごとに住み分けるという知恵によって、安定した社会を築き上げてきた――と、言われていた。そのオランダで、11月2日に起きたムスリムによるテオ・ヴァン・ゴッホ殺害事件は、あらためて異文化共存の困難さを見せつけた。

 もちろん、異文化共存は困難であっても、「可能」である。しかし、それを「可能」ならしめるためには、それ相応の知恵と工夫、そして「共存の必然性」が欠かせない。はたして、日比FTA合意を機に盛り上がりつつある日本経済界の外国人労働者受け入れ論議に、知恵・工夫・必然性は備わっているのか。

 11月29日、日本・フィリピン間で、FTAを中心とする経済連携協定が合意に達した。注目されていた労働市場の開放については、看護師や介護福祉士を条件付きで受け入れることに決まった。

 今回の看護師・介護福祉士の受け入れに関して、「初の労働市場開放」と報じたマスコミもあるようだが、これは事実として正確とは言いがたい。現実に、約80万人の外国人がすでに日本で働いている。80万人といえば、地方の県庁所在地並みの人数だ。

 原則として、政府が外国人に就労を認めているのは、「高度な技術・技能」を要する職種のみだ。いわゆる「単純労働」については、社会的コストの増大を理由に認めていない。しかし、実際は多くの「裏道」が用意されている。「裏道」作りに奔走したのは、自民党労働族だ。

 以前の記事でも触れたが、1990年、自民党の後押した入管法改正によって、日系人の就労緩和が実施された。結果、90年時点では約7万人だった日系人の外国人登録者数が94年には約20万人、2003年には約33万人に達している。日系人には、事実上、就労に関する制限はない。そのため、日系人成人の多くは「単純労働」に就いていると見られる。

 一方、問題になっているのが、外国人労働者の公的医療への未加入や児童の未就学、近隣住民とのトラブル等だ。具体的な対策を求められる自治体では、国に抜本的な取り組みを求める声が高まっている。

 しかし、厚生労働省や文部科学省の腰は重い。「医療費未払いや未就学などの問題は日本人にもある。外国人だけ特別に対応するわけにはいかない」「原則的に、医療保険への加入は雇用主、教育は親の責任」と、国の担当者は言う。

 さて、では外国人を雇用する当の経済界はどう考えているのか。以下、12月1日の日経新聞の記事経団連会長「外国人労働者問題、政府見解は絵空事」から。
日本経団連の奥田碩会長は1日、外国人労働者の受け入れ問題についての経団連シンポジウムで講演し「単純労働者の受け入れは慎重に考えるという政府の公式見解は、既に現実をかけ離れた絵空事、建前になりつつある」と述べ、外国人の秩序ある受け入れを改めて求めた。
 政府の公式見解が矛盾を抱えているとの指摘には同感する。さすがにグローバル企業を率いる会長だけのことはあって、霞ヶ関の官僚より広い視野をお持ちのようだ(^^)。
労働力の不足が見込まれるなか「すべてを日本人だけでやっていこうという考え方は成り立たなくなっている。既に外国人は多数就労し、経済の一部を支えている」と指摘(中略)「重要なのは(外国人を)受け入れるか否かを議論することではなく、いかにうまく受け入れるかを議論することだ」と強調。具体的には「高度人材に限らず、製造業などの現場や看護師、介護士などの分野でも透明で安定的なシステムで前向きに受け入れるべきだ」と提案した。
 この発言には、安易に頷くわけにはいかない。外国人労働者が日本経済の一部を支えていることは、たしかに事実であろう。しかし、先に挙げたように、定住外国人の社会保障、教育、住居等に関わる問題は、未解決のままだ。これらの問題をどのように解決していくのか。その裏づけとなる資金は、誰が負担するのか。企業か、政府か、外国人自身か。その選択を誤ると、異文化共存はもろくも崩れ去るはずである。
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by priestk | 2004-12-04 04:19 | 外国人労働者論