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日本政治の考察
by priestk
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日本における個人主義批判の思想的伝統
 サラリーマンサバイバル日記さんの記事、「『立憲主義』自民を包囲/衆・参の憲法調査会、論議最終盤へ」を拝見して、ひとつ気がつくことがあった。結論から言えば、日本には「個人主義批判の思想的伝統」があるのではないか、ということになる。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」という考えが自民党内に強まってることについては、たびたび報じられている(参考)。僕自身は自民党の認識にはかなり違和感を覚えていて、以前の記事でも取り上げてきた。

 普通、自民党の憲法観は、「法学のイロハをしらない」とか「立憲主義の否定」という言葉で批判される。たしかに、法律家の立場からすればもっともな批判である。しかし、一見、思いつきの域を出ないようにさえ見える自民党の「個人主義批判」の思想的な根っ子は、かなり深いのではないかと思うのだ。

 結論めいたことを言うと、「行き過ぎた個人主義」を批判する思想的立場は、昭和12年に文部省が編纂・刊行した『国体の本義』の思想と酷似している。

 『国体の本義』は、大正デモクラシー以降、定説的な地位を占めていた美濃部達吉の天皇機関説を否定した「国体明徴運動」のイデオロギーを確立したもの、と言えるだろう。一部の右翼的な団体のものでしかなかった国体思想が、『国体の本義』をもってして、日本の公定イデオロギーとされたのである。

 また、同書が著された昭和12年という年も気になる。昭和12年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。翌昭和13年には国家総動員法が制定されている。つまり『国体の本義』は、本格的な戦時体制へ移行するにあたって、日本社会の思想的引き締めを図ったものと見ることが出来るかもしれない。

 それはともかくとして。
 同書の「結語」には、以下のような一文がある(以下、引用は近代日本思想史研究会『天皇論を読む』講談社現代新書、2003年)。

明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあったが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亘って種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以って広大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。
 ここで言う、西洋文明の「醇化」とは、「その本質である『個人主義』を切り捨て、『自然科学』や『精神科学』『及びその結果たる物質文化の華やかな発達』を輸入すること」を指している。手っ取り早く言えば、「和魂洋才」である。

 また、同書は、人間とは、現実の存在であると同時に「永遠なるものにつらなる歴史的存在」であって、「国民精神に基づいてその存在が規定される」という。つまり、個人は単独で存在しているのではなく、あくまで「国民」という有機的に結びついた存在の一部だと規定される。つまり、独立した個々人が集まって社会を構成していると見る、社会契約説的な社会観を否定しているわけである。

個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて、全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に走る。ここに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。
 このように、国体思想を、西洋思想の一バリエーションとしてではなく、西洋思想よりも一段高いレベルにあるものとする考え方は、「近代の超克」を図った当時の思想家に共通している。

 もちろん、現在では「国体思想」そのものの優位性を信ずる人はごく少ないだろう。しかし、近代立憲主義の掲げる「普遍性・非歴史性」を顧みることなく、国体思想の思想的柱である「国民性と歴史性」をごく自然に受け入れる自民党の姿勢は、『国体の本義』の精神と通じるものがある。

 「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」。近所の口うるさいジイサンがため息まじりにもらすようなありふれた言葉だが、その根っこは、結構深いのかもしれない。だとすれば、立憲主義者の側も、教科書どおりの反論をするだけでなく、もっと本腰を入れた議論を行なわなければいけないのではないか。
by priestk | 2004-12-10 20:30 | 憲法論
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