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日本政治の考察
by priestk
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西園寺公望の皇室観
国家と伝統
 どんな国家であれ、暴力のみで人々を支配できるほどに強くはない。だから、国家はシンボルを必要とする。国旗と国歌、国民共通の言語と歴史、そして、国家元首。これらは、多かれ少なかれ、精緻に作り上げられた人為の産物だ。しかし、時を経るごとに作為性は薄れ、自然なもの、古いもの、愛着のあるもの、つまり、「伝統」として認識されるようになる。

 「伝統」は国家を安定的に存続させる上で、非常に重要な要素にちがいない。その反面、国民の意識の奥深くまで浸透した「伝統」は、「常識」として人々の思考と行動をしばるようにもなる。
 たまには、その「伝統」を再考してみることも、社会の知的風通しを良くするために必要だ。今回は、元老就任後、亡くなるそのときまで天皇側近として行動した、西園寺公望の皇室観を手がかりに、天皇制の「伝統」を考えたい。

西園寺の皇室観
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 西園寺公望(1849~1940)は、日本政治史を語る上で、興味の尽きない人物だ。10代で山陰道鎮撫総督に任ぜられ戊辰戦争に従軍してから、軍部ファシズムの台頭を憂いつつ91歳で没するまで、彼は独特のスタンスで政治と関わり続けた。西園寺は、晩年に彼の皇室観を次のように語っている。
大臣など、御前に出るのを遠慮しすぎる、日常の政務は、天皇と意見が異なった場合でも遠慮せず反対の理由を奏上して差し支えない、明治天皇の御世でも、たとえ天皇が反対されても、これはこうしなければならないと直言し、時には激論の後にご理解を得たこともある、そこに輔弼ということがあるのである、「君臣の礼、上下の別というものは、ただ思し召しに違わない、御言葉には皆従うということではない」
 岡義武氏によれば、このような一種「リベラル」な皇室観は、たしかに彼の出自――清華家の出身であり、明治天皇の遊び相手だった――に由来する部分が大きい。同時に、彼自身が早くから西洋文明に憧れ、公卿としては初めて断髪し、また洋装で参内した人物であることからも伺えるように、生粋の開明家だったことも影響している。

伊藤博文の皇室観
 薩長の元老たちにとって、天皇(皇室)は、藩閥政府の支配を正統化する最大のよりどころであった。特に伊藤博文は、「胸間に勲章をきらめかして勿体ぶって振舞うことが甚だ好き」だった。生来の名誉心の強い性格から、伊藤は厳粛荘重な「栄誉の体系」である皇室制度と華族令を整備してゆく。
 伊藤のこうした皇室政策に対して、西園寺は次のように評している。
わたしどもは、自然的にリベラールに皇室を敬うと共にもっと親しみのあるようにしたい考えであったが、伊藤の方は――全体、あの人は荘重文雅というようなことがすきでね――皇室に対しては言語から改める。わたくしと云っていい場合にも、臣がとか、臣博文がとか云う。伊藤の奏議を聞くには漢学の稽古からしてかからなければ――と陛下(明治天皇)が笑われた
 歴代天皇の信任がきわめて篤かった西園寺公望。その彼が語る皇室観は、教科書で教わる戦前の「天皇絶対主義」とは、かけ離れたものだ。 
 余談だが、最近、宮内庁の厳格な諸規制がすこぶる悪名高い。彼ら自身は、「伝統的」スタイルにのっとって自らの職責を果たしているだけだと考えているのだろう。しかし、「荘厳にして厳粛たる」皇室の伝統の根拠をたどれば、伊藤博文のパーソナリティーに行き着くに過ぎないのだ。

■参照・引用文献
岡義武『近代日本の政治家』岩波現代文庫、2001年。
by priestk | 2004-10-26 02:42 | 天皇論
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