ぷち総研
2006-05-07T23:09:44+09:00
priestk
日本政治の考察
Excite Blog
耐震強度偽造問題と国家賠償
http://priestk.exblog.jp/4596192/
2006-05-07T22:57:00+09:00
2006-05-07T23:09:44+09:00
2006-05-07T22:57:43+09:00
priestk
その他内政・外交
那古野庵さんが引用しておられる判例からわかるように、建築確認事務は、自治体と指定確認検査機関のどちらが行おうが行政行為となる。そうである以上、国家賠償法1条「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を与えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」が適用される可能性は否定できない。
したがって、同法1条の「故意又は過失」や「違法」の要件が満たされれば(検査体制の杜撰さからして立証の可能性は高い。)、住民が自治体や国を相手取って訴訟を提起することが考えられる。
しかし、訴訟だから判決が出るまでには相当の時間がかかることが予想されるで、何らかの立法措置によって救済が図られるかもしれない。この場合、建築確認の制度設計に問題があることは明らかなのだから、制度設計者である国土交通省が主たる責任・負担を負う必要があるのではないか。
ところで、『地方自治』4月号の「新発想行政法4(鼎談)」で、小幡純子教授らがこの問題を議論している。この中で、「民間開放した事務については、行政が自ら賠償責任を負うのではなく、資力のない民間が賠償責任を負えなくならないように、保険をちゃんとかけなさいよと義務付けることこそが行政の役割なのではないかと思います。」(86頁。幸田発言)と指摘されていて興味深い。建築確認に関する監視体制の強化と併せて検討すべき事項ではないか。]]>
福田康夫は運がいい
http://priestk.exblog.jp/4572315/
2006-05-05T18:34:00+09:00
2006-05-05T18:44:55+09:00
2006-05-05T18:34:05+09:00
priestk
政局・選挙
竹島問題によって、安倍氏が避けようとしてきた歴史認識・アジア外交問題がすっかり争点化した。行き詰っているアジア外交は、安倍氏が首相になっても現状維持だが、福田氏ならば解決もしくは改善できるのではないか・・・・・・そんな認識が広がりつつある。
しかし、福田氏が首相に就任したとして、日本の対アジア政策が一体どれほど変わるというのだろうか。領土問題で大きく譲ることができようはずはない。そうすると、せいぜい、在任中は靖国に参拝しないと明言する程度のことではないか。
福田氏は、靖国に参拝しないだけで実に多くのものを獲得する。中国、韓国の大きな歓迎。アメリカも、政府はともかく、世論は歓迎する(アメリカの主要紙が日本のナショナリズムに批判的なのは周知のとおり)。それから、日本の経済界と、国民世論の4割程度から支持を得ることができるだろう。実においしいポジションにいるというほかない。
日本のナショナリズムが高まれば高まるほど、逆説的ではあるが、穏健派の象徴としての福田氏の地位は確固たるものになる。一方、安倍氏は、歴史認識・アジア外交の争点化により、苦しい立場におかれることは避けられない。なぜならば、強硬姿勢を維持しながら、この問題について落としどころを見つけなければならないからだ。
人気blogランキングの政治部門をはじめ、ネットでは福田氏の評判はあまりよろしくないようである。
しかし、福田氏を総裁にしたくない人は、媚中とか売国奴とかレベルの低い批判をやめたほうがよいのではないか。ますますアジア外交が争点化し、安倍氏、麻生氏には不利になるように思われる。
むしろ、格差社会や経済政策で攻めた方がいい。福田氏は格差社会や経済政策について明確な発言をしていないため、場合によってはこれが弱点となる可能性がある。]]>
ごぶさたでした
http://priestk.exblog.jp/2743448/
2005-05-17T00:37:19+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2005-05-17T00:34:50+09:00
priestk
雑談
priestkです。
入社後、多少は仕事に慣れてきたので、更新を再開しようかと思います。
放談漫談にお付き合いいただけると幸いです。
*頂戴したコメント、TBには少しづつお返事してまいります。
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「女性天皇」の実現は時間の問題か
http://priestk.exblog.jp/1548171/
2004-12-28T01:45:14+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-28T01:43:27+09:00
priestk
天皇論
Excite エキサイト : 主要ニュース
政府は27日、「皇室典範に関する有識者会議」を設置することを決めた。来年1月に初会合を開き、秋ごろに報告書を取りまとめる方針。男性に限られている皇位継承を女性にも認めるかどうかなども検討する見通し。 諮問機関の性格は、往々にして人選に表れる。顔ぶれから、誰がどんな役割を期待されているのか、なんとなく判ったりするものだ。というわけで「有識者会議」のメンバーを見てみよう。
岩男壽美子武蔵工大教授、緒方貞子国際協力機構理事長、佐々木毅東大総長、奥田碩日本経団連会長、久保正彰東大名誉教授、笹山晴生東大名誉教授、佐藤幸治近大法科大学院長、園部逸夫元最高裁判所判事、古川貞二郎前内閣官房副長官、吉川弘之産業技術総合研究所理事長 まずメンバー10名の所属団体の属性から分類すると……
●政府関係、3名:緒方氏、古川氏、吉川氏
JICAの緒方氏はもちろん政府系。古川氏は言うまでもない。吉川氏は経済産業省系の独立行政法人の理事長だ。
●研究者、5名:岩男氏、佐々木氏、久保氏、笹山氏、佐藤氏
岩男氏は男女平等、女性へのエンパワーメントを主張される学者。佐々木氏は言わずと知れた政治思想の泰斗。久保氏は古代ギリシア、ローマ文学がご専門。笹山氏は日本古代史の研究者。佐藤氏は憲法学者。
●その他、2名:園部氏、奥田氏
園部氏は政府系に入れてもいいかもしれないが、司法関係者ということで、一応「その他」に分類した。奥田氏は経済財政諮問会議のメンバー。ある意味、奥田氏も政府系かも。
27日午前の情報では、「懇談会のメンバーは、学者や法律の専門家などで構成する予定」とあったにもかかわらず、実際の顔ぶれを見ると、天皇制や日本史の専門家が笹山氏だけということに気づく。ほかの研究者は、もっぱら法律関係の専門である。また、官邸のコントロールが効きやすい政府系のメンバーがそろっていることにも注目していい。
さて、次はちょっと難しいが、メンバーの女性天皇に対するスタンスで分類してみよう。
●どちらかというと容認:緒方氏、古川氏、吉川氏、岩男氏
「政府系」のメンバーは、皇室典範改正に前向きな小泉首相の意向を十分承知した上で「有識者会議」の加わったのだから、当然「容認」の姿勢を打ち出すと思われる。岩男氏は、男女平等の観点から容認と思われる。
●どちらかというと慎重:笹山氏
笹山氏は記紀に関する著名な研究者であり、天皇制の歴史や伝統に通じていることから、典範改正には慎重姿勢を示す可能性がある。
●不明:佐々木氏、久保氏、佐藤氏、園部氏、奥田氏
西洋政治思想を専門とされる佐々木氏、古代ギリシア、ローマに詳しい久保氏が、天皇制に対してどんな見解を持っているのか、不勉強なので存じ上げない。憲法と法律の専門家である佐藤氏、園部氏がどういう態度を取るのか、やはり一概には言えない。奥田氏についても、判らない。
そもそも小泉首相が「女性天皇」を容認するような発言をしたことを知った上で、「有識者会議」に参加した人々なので、容認派が多いのは当たり前である。笹山氏は、一種のガス抜き役と考えてよいかもしれない。また、スタンスが不明なメンバーの中には、他の政府系諮問機関で小泉首相のために汗をかいている者も少なくなくない。そういう意味では、「女性天皇」実現に向けて、小泉首相が抜かりなく布陣を固めた――と見てもいいだろう。
さて、女性天皇あるいは女系天皇に慎重な人々は、これを見て切歯扼腕しているかもしれないけれども、「天皇が天皇ではなくなってしまう」といった心配は要らないような気がしている。「血統原理」が消失した程度で、天皇制そのものが失われてしまうはずはない、と感じるからだ。それを言うならば、むしろ、戦後の「人間宣言」の方がはるかに重大な天皇制の「自己否定」であったはずだ。その瞬間、天皇制は、国家とも宗教とも(少なくとも公的には)切り離されてしまったのだから。
それにもかかわらず、なぜ多くの国民が現在に至るまで天皇制を支持しているのか。なぜ、昭和64年1月7日のあの朝、小学5年生の僕は無意識のうちに涙を流したのか。天皇制は、日本人の心の深い部分を掴んでいる。これは、美しく、愛しく、そして恐ろしい現実である。]]>
憲法は万能ではない――『改憲論は必要か』を読む(2)
http://priestk.exblog.jp/1482474/
2004-12-26T03:35:33+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-21T21:30:43+09:00
priestk
政治・政治学書籍
執筆者が護憲派で固められた同書のなかで、ひときわ異色を放っているのが杉田敦氏の論文だ。タイトルは、「『押し付け憲法』は選びなおさないと、自分たちの憲法にはならないのではないか」である。
しかし、こうした表題にもかかわらず、これまで延々と繰りかえされてきた「押し付けか、自由意志か」という議論に割かれているのは最初の5、6ページだけ。残りの14、5ページは、杉田氏独自の「コンスティテューション」観の説明に費やされる。しかも、氏の「コンスティテューション」観とは、これまでの護憲論・改憲論を「テキスト信仰」であるとしてバッサリ切って捨てる、なかなか熱い議論なのだ。うーん、エキサイティング。(^^)
うまく要約する自信はないけれども、杉田論文のあらすじをご紹介しよう。
(1)「選びなおし」的な改憲論をどう考えるか
・現憲法の内容に不満は無いが、現憲法の起源にまつわる「ねじれ」を取り除くために国民投票で選びなおしたらどうか、という「選びなおし」的な改憲論を護憲派はどう考えるか。
・社会契約論的な説明法(「憲法は国民が自由な意思で選び取った。制定時多くの国民が熱狂的に歓迎し、その後も長いあいだ受け入れられてきた」)は、「そんなに社会契約が大事なら、もう一度きちんと選びなおそう」という意見に対し、契約論そのものによって反論できない。
・普遍主義的な説明法(「現憲法は人類にとって普遍的な価値を体現しており、直すべきところはない」)は、9条のような内容を含む憲法典が類例を見ないものであるため、説得力に欠ける。人民主権に立つかぎり、人民の多数派が求める改憲は止めることはできない。
(2)歴史を重視する「コンスティテューション」という発想
・英語のコンスティテューション(constitution)は、テキストとしての憲法典だけでなく、統治構造・政治体制も指す。とくにイギリスのコンスティテューションは、「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などの文書に加え、さまざまな慣習や判例を合わせた制度構造全体を含意する(フランス、ドイツの法典中心主義とは正反対の特徴)。
・歴史的にみれば、「憲法典をつくり直すというのは、一挙に政治体制をつくり直すという考え方と不可分であり、これはまさに革命の思想」(p.59)である。
・これに対し、イギリス流のコンスティテューションは革命ではなく歴史を重視する。日本でもイギリス流の考え方を定着させたい。「国会や裁判所だけでなく、それぞれの地域社会で、会社で、家庭で、人々の関係をどのようなものにするのかをめぐって、議論があり、対立があり、その結果として、ある種の制度や慣行が成立して行きました。(中略)白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」(p.61)。
(3)憲法は万能ではない
・護憲派は、立派な現行憲法があったおかげで戦後の日本はまがりなりにも人権・平和主義・デモクラシーが定着した、だから憲法を守るべきだというが、テキストだけ守っても実践が伴わなければ何にもならない。
・法律や慣習でどうにもならない問題が改憲で解決できるという発想は、主権国家が万能であるという幻想に依拠したもの。現実に生起している問題は、コミュニティのルール、自治体のルール、国のルール、そして国際法など諸ルールの相互関係の中で解決されるのであって、憲法の条文を書き換えて済むことではない。
最後に僕から若干コメントをしたい。
いかがだったろうか。正直に言って、違和感を覚えられた方も多いのではないかと思う。
まず補足したいのは、杉田氏が「政治の領域」の問題として憲法問題に発言しているということである。これまで憲法はもっぱら「法の領域」で論じられてきた傾向がある。「法の領域」で問題となるのは、国家統治が法規範に従って進められているかどうか、である(swan_slabさんの記事「法の支配」を参照)。一方、「政治の領域」では、現実の利害調整のプロセスが問題となると言っていいだろう。その意味では、杉田氏が現憲法制定から60年におよぶ、憲法の血肉化のプロセスを重視したい気持ちはよく理解できる。
ただ、憲法典が「それだけで何かを実現させる魔力を持っているわけでは」(p.60)ないにせよ、憲法が現実政治に及ぼす影響力の程度については議論の余地があるように思われる。杉田氏がいかにイギリス流のコンスティテューションを理想とし、その考え方の定着をはかろうとも、きわめて集権性の高い日本の法制度を考えれば、その試みは難しいものであると見なさざるを得ない。
このように若干の不満点は残るものの、杉田論文は、政治学者による独創性ある憲法論として評価できると思う。改憲が秒読み段階に入ったと思われる現在、「白紙の上に条文を書き付ける作業だけを憲法づくりと考えるのではなく、生活の中で制度や慣行を確立して行くことこそが憲法づくりだと思う」という指摘は、「ポスト改憲時代」の指針を与えてくれるものだ。
改憲後、たとえ集団的自衛権の行使が認められたとしても、政府が国民に対して海外派兵の正当性を説得しなくてはならない事実に代わりはない。問題は、国民の側に、政府の不当な行為に声を上げるだけの意思があるかどうかだ。
同様のことは政府にも言える。自衛隊に関わる憲法問題をクリアしたところで、日本の置かれた外交・安全保障環境が劇的に変わるわけではない。米国、中国、そして北朝鮮との関係を、日本により有利な形に持ってゆけるかどうかは、政府の具体的な行動にかかっている。]]>
『改憲は必要か』を読む(1)
http://priestk.exblog.jp/1480785/
2004-12-21T18:22:35+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-21T18:21:45+09:00
priestk
政治・政治学書籍
今年10月に岩波書店から出版された憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』をざっと読んだ。加藤周一氏の「まえがき」によれば、この本は「今広く世間に行なわれている改憲論の要点について、その背景を説明し、そこに含まれている問題点を指摘」したものだ。
章立てはQ&A形式になっている。たとえば、樋口陽一氏による第1章のタイトルは、「いま、憲法九条を選択することは、非現実的ではないか」であり、これに応答するかたちで議論が進められていく。参考までに各章のタイトルと執筆者名を挙げておこう。
1 いま、憲法九条を選択することは非現実的ではないか(樋口陽一)
2 国連は無力なのだから、国連中心の平和主義には意味がないのではないか(最上敏樹)
3 「押し付け憲法」は選びなおさないと、自分たちの憲法にならないのではないか(杉田敦)
4 憲法といっても法の一つなのだし、改正の手続だって規定されているのだから改憲にそんなに慎重でなくてもよいのではないか(阪口正二郎)
5 憲法を改めれば、自由や人権の状況も改善されるのではないか(阿部 浩己)
6 市民がどれだけがんばっても、しょせん戦争は止められないし、世界は変わらない。憲法九条も変えられてしまうのではないか(北沢洋子)
7 現実と乖離した憲法は、現実にあわせて改めた方がいいのではないか(水島朝穂)
執筆者の顔ぶれからもうかがえるように、同書では、全体的にオーソドックスな護憲論が展開される。代表的な護憲論者が、9.11後、イラク戦争後の世界をどう見ているか、その点を把握するという意味では、読んでも損はないと思う。
ただ、僕に法学や憲法学の素養がないためかもしれないが、読んでいて多少の違和感がある。それは、同書の論文の中には、「現状批判の論」としては適切であっても、「問題解決の論」とは言えないように思われる議論が散見されることだ。
たとえば、最上敏樹氏は、米英がイラク攻撃に際して国際社会の共同決定という手続きを経なかったことは、「規範の弛緩であり、法の支配の退行」であるという。そして「国連の集団安全保障が不完全であるなら、それを見捨てるのではなく、欠陥を補修し、より実効的なものにする工夫が必要」だと論じる。まことにもっともな意見だと思う。
それでは、いったいどうすれば実行力ある国連集団安全保障を実現できるのか。最上氏は、国際安全保障を単独行動主義から切り離し、法的責任も明確な国際共同行動とすべきだと説く。
しかし、これでは「目標」と「手段」が同義反復しているのではないか。極端なことをいうと、目標だけ示して、具体的道筋を描くことを放棄しているようにさえ見える――もっとも、これは法学や憲法学が法的妥当性を論ずる規範の学である以上、やむをえないことなのかも知れないが。
同様の不満は、樋口陽一氏の論文についてもいえる。
同氏は、「九条をめぐる改憲と護憲の最大の分かれ目は、『正しい戦争がありうるか』という問いに肯定で答えるか否定で答えるか」にあると主張する。その上で、「正しい戦争がある」とする意見の者は、「『正しさ』を見分けようとする真剣さを示してはじめて、『正しい戦争』そのものを否定する立場と対等に論争する立場に立てる」と述べる。
樋口氏が見るところ、日本政府はイラクへの自衛隊派遣の「正しさ」について、「いざというときにアメリカに守ってもらえなくなる」以上のことを説明していない。
また、人道のための武力介入を行うために改憲すると主張するのであれば、難民受け入れなど国内の人権・人道政策を充実させた上のことでなければおかしいではないかという。
このような樋口氏の主張は、決して全面的に否定できるようなものではない。むしろ、もっともだと思う。
しかし、結局ここでも問題に思うのは、この主張を政策論として見た場合の実効性の無さだ。樋口氏は、改憲論者の側が「正しい戦争」を行えるようにするため改憲案を提起した後に、論争を行い、国民が選択すればよいのだという。
うーん、ちょっとおかしくないか。護憲論者が、いくら正しい論争をしようじゃないかと呼びかけても、その条件が整うことは永遠に無いと思われる。改憲論者は「正しい戦争」の是非を論じたいがために改憲論を主張しているわけではないからだ。
この社会は、正しい論争を通じて正しい答えを導き出すことを自己目的化して動いているわけではない。むしろ民主的な討議のプロセスは、数多ある社会問題を解決するための手段だと思うのだが。
僕自身は心情的には護憲論に共感を覚えるだけに、こうした法学一辺倒の護憲論にはもう少し説得力を増す工夫をしていただきたいと思う。
さて、僕なりに興味を引かれた論文もあった。第3章の杉田敦氏の論文である。杉田氏は、護憲と改憲という対立軸そのものが不毛であると断じており、他の執筆者とはやや異なる姿勢を打ち出している。これには、氏が政治理論を専門とされる政治学者であることもかかわっているのかもしれない。
長くなるので、杉田論文については次の記事でご紹介させていただきたい。]]>
マキアヴェリと経済制裁
http://priestk.exblog.jp/1397874/
2004-12-14T02:55:53+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-14T02:54:07+09:00
priestk
日朝関係論
Excite エキサイト : 政治ニュース
政府・与党間で、12月13日、「期限付き最後通告」案が急浮上してきた。武部勤幹事長の言葉によれば、これは、「期日を設けて最後通告をし、納得できない回答の場合は即刻、経済制裁を発動」する、というものである。回答期限は来年3月が目処とされる見通しだ。
たしかに、来年3月までの「猶予期間」を設けることで、来年1月下旬に発足する第2期ブッシュ政権の動向を見守っている北朝鮮の出方を探ることができるだろう。米国が動き始める前に日本単独の経済制裁を発動して、北朝鮮に6か国協議再開拒否の口実を与えたくない――という外務省の配慮がにじむ。
また、「期限付き最後通告」案には、世論の沈静化を図ろうとする政府の意図も伺える。3ヶ月の冷却期間を置けば、熱しやすく冷めやすい国内世論が、どう変わるか判らないからだ。
一方、経済制裁推進派議員にしてみても、制裁実施後のビジョンが必ずしも描けているわけではない。制裁が効果を上げないだけならまだしも、米国や韓国から批判をうけるようなことになれば、推進派議員は難しい立場に追い込まれてしまう。
今回の「期限付き最後通告」案は、そんな政府と与党にとって、格好の「落とし所」だったのではないか。
このように、「期限付き最後通告」案は、国内対策として考えれば無難な方法といえる。しかし、外交方針として適切なのかといえば、かなり心もとない。実際に、「政府内では『完全に満足できる回答は極めて難しいだろう』(外務省幹部)との見方が支配的だ」という。
もしも北朝鮮が妥協を見せず、かつ国内世論も軟化しなければ、当然、政府は経済制裁を発動せざるを得なくなるだろう。そういう意味では、「期限付き最後通告」案は政府にとって諸刃の剣である。
話はがらっと一転するが、僕は、経済制裁の是非については一貫して「政策論」の立場から論じてきた。つまり、僕自身が政府の政策決定者だとして、「どうすれば最も合理的に問題を解決できるか」という観点だ。ここでは、「経済制裁は、役に立つかどうか(追記:そして、そのタイミングはいつか)」が問題となる。
これと対置される立場として、「正義論・道徳論」として経済制裁の是非を見ることもできる。それは、「どのように問題は解決されるべきか」という観点だ。ここでは、「経済制裁は、正義に適うかどうか」が問題となる。
とすると、経済制裁をめぐって四つの立場があることになるだろう。
①経済制裁は「役に立つし、正義に適う」
②経済制裁は「役に立つが、正義には適わない」
③経済制裁は「役に立たないが、正義に適う」
④経済制裁は「役に立たないし、正義にも適わない」
僕は、経済制裁の発動は、現段階では拉致問題解決の「役に立たない」と考えている(追記:一方で、国際的環境が整えば、経済制裁は「役に立つ」と考えている)。その理由は繰り返し述べてきた。しかし、制裁発動が「正義に適う」のかどうかは、未だに断定できずにいる。
拉致という非人道的な「国家犯罪」を犯した国に、経済制裁を実施し人道支援を凍結することは、「正義に適う」とも思う。一方で、こうした「正義に適う」報復の連鎖が、いま地球上に存在する戦争・紛争・抑圧の原因の一つであることも理解できる。
マキアヴェリはこう言う。まさにとられる解決策によって国家の安全が左右されるような場合には、正義か不正義か、人道的か残酷か、栄光か恥辱かなどということを考慮する余地はない。そうではなくて、ほかのすべての考慮を排して、「どの道がこの国の生命と自由を救うのか」ということのみを問うべきなのである*1。 マキアヴェリですら、「国家の安全が左右される」緊急事態以外では、正義や人道や栄光は顧みられる有効な手段であると考えていることに注目したい。
日本は今、「まさにとられる解決策によって国家の安全が左右されるような場合」に直面しているのだろうか。そうであれば、あらゆる手段を検討しなくてはならない。そうでなければ、ぎりぎりまで、政府には「正義に適う」道を模索して欲しい。
*1 バーナード・クリック『現代政治学入門』講談社学術文庫、2003年、33ページ。]]>
日本における個人主義批判の思想的伝統
http://priestk.exblog.jp/1357942/
2004-12-10T20:30:43+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-10T20:29:52+09:00
priestk
憲法論
「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」という考えが自民党内に強まってることについては、たびたび報じられている(参考)。僕自身は自民党の認識にはかなり違和感を覚えていて、以前の記事でも取り上げてきた。
普通、自民党の憲法観は、「法学のイロハをしらない」とか「立憲主義の否定」という言葉で批判される。たしかに、法律家の立場からすればもっともな批判である。しかし、一見、思いつきの域を出ないようにさえ見える自民党の「個人主義批判」の思想的な根っ子は、かなり深いのではないかと思うのだ。
結論めいたことを言うと、「行き過ぎた個人主義」を批判する思想的立場は、昭和12年に文部省が編纂・刊行した『国体の本義』の思想と酷似している。
『国体の本義』は、大正デモクラシー以降、定説的な地位を占めていた美濃部達吉の天皇機関説を否定した「国体明徴運動」のイデオロギーを確立したもの、と言えるだろう。一部の右翼的な団体のものでしかなかった国体思想が、『国体の本義』をもってして、日本の公定イデオロギーとされたのである。
また、同書が著された昭和12年という年も気になる。昭和12年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。翌昭和13年には国家総動員法が制定されている。つまり『国体の本義』は、本格的な戦時体制へ移行するにあたって、日本社会の思想的引き締めを図ったものと見ることが出来るかもしれない。
それはともかくとして。
同書の「結語」には、以下のような一文がある(以下、引用は近代日本思想史研究会『天皇論を読む』講談社現代新書、2003年)。
明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあったが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亘って種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以って広大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。 ここで言う、西洋文明の「醇化」とは、「その本質である『個人主義』を切り捨て、『自然科学』や『精神科学』『及びその結果たる物質文化の華やかな発達』を輸入すること」を指している。手っ取り早く言えば、「和魂洋才」である。
また、同書は、人間とは、現実の存在であると同時に「永遠なるものにつらなる歴史的存在」であって、「国民精神に基づいてその存在が規定される」という。つまり、個人は単独で存在しているのではなく、あくまで「国民」という有機的に結びついた存在の一部だと規定される。つまり、独立した個々人が集まって社会を構成していると見る、社会契約説的な社会観を否定しているわけである。
個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて、全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に走る。ここに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。 このように、国体思想を、西洋思想の一バリエーションとしてではなく、西洋思想よりも一段高いレベルにあるものとする考え方は、「近代の超克」を図った当時の思想家に共通している。
もちろん、現在では「国体思想」そのものの優位性を信ずる人はごく少ないだろう。しかし、近代立憲主義の掲げる「普遍性・非歴史性」を顧みることなく、国体思想の思想的柱である「国民性と歴史性」をごく自然に受け入れる自民党の姿勢は、『国体の本義』の精神と通じるものがある。
「今の日本人は行き過ぎた個人主義がはびこっている」。近所の口うるさいジイサンがため息まじりにもらすようなありふれた言葉だが、その根っこは、結構深いのかもしれない。だとすれば、立憲主義者の側も、教科書どおりの反論をするだけでなく、もっと本腰を入れた議論を行なわなければいけないのではないか。]]>
遺骨は別人――戦略的な北朝鮮外交を
http://priestk.exblog.jp/1337616/
2004-12-09T00:25:27+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-09T00:24:36+09:00
priestk
日朝関係論
Excite エキサイト : 主要ニュース
許しがたいことではあるが、大方の予想通りの結果だったのではないだろうか。そもそも北朝鮮のような独裁国家が拉致の事実を認めたこと自体が「奇跡的」なのである。
北朝鮮は、もはや拉致の真相に迫る情報を出すつもりはないのではないか。「真相」がどのようなものか、僕に知る由も無いが、それはおそらく日本の世論を激怒させるものだろうと思われる。情報を出しても出さなくても、日本の反発を買うのであれば、いっそ嘘の情報でも出して時間を稼ごう……そんな北朝鮮の意図が透けて見える。
政府は、12.5万トンの食糧支援の見合せと、中国を通じての北朝鮮に対する厳重抗議を行うという。北朝鮮の約束した調査が極めて不誠実であることが判った以上、やむを得ない措置だろう。
ただし、日本単独の経済制裁発動には慎重を期すべきだ。NHK10時のニュースで家族会事務局長の蓮池透氏が主張されていたように、経済制裁の発動は「目的」でなく「手段」に過ぎない。蓮池氏は、国際的な北朝鮮包囲網を形成したり、あるいは経済支援をちらつかせて北朝鮮の妥協を引き出すことも重要であると指摘されていた。つまり、戦略的な北朝鮮外交の必要性を主張されていたわけである。この意見に僕も全く同感だ。
以前の記事で繰り返し述べてきたように、北朝鮮を追いつめるためには、国際的包囲網の構築が不可欠である。しかし、アメリカは融和的な「ボールド・アプローチ」も選択肢に入れている。韓国や中国は現段階では経済制裁を考えている様子は無い。このような国際環境の中で日本だけが突出すると、6か国協議は日本抜きの「5か国協議」になってしまいかねない。
拉致問題解決の手段として、何が最も適切なのか。『ニューズウィーク 日本版』12月1日号によれば、慶応大学の小此木政夫教授は、「今のところ、拉致問題を解決する手段はない。解決することがあるとすれば、それは核問題で北朝鮮が妥協する気になったときだろう」と言う。
専門家の意見は傾聴すべきだが、静観する以外にも日本政府が積極的に打つ手はあるのではないか。たとえば、拉致問題を国際的にアピールすることや、対北朝鮮経済支援の撤回をちらつかせて、アメリカや中国により強硬な姿勢を求めることだ。
いま、日本と北朝鮮は、壮絶な外交戦を繰り広げている。一時の感情に流されて、戦略を誤るようなことがあってはならないと思う。]]>
経済制裁とイラン核問題の教訓
http://priestk.exblog.jp/1303767/
2004-12-06T13:10:58+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-06T13:10:07+09:00
priestk
日朝関係論
Excite エキサイト : 政治ニュース
町村信孝外相は5日のテレビ朝日の報道番組で、北朝鮮に対する経済制裁の発動について「なかなか難しいのは、制裁をやれば、彼らは『日本がそういう制裁をとっているのだから』と言って、6カ国協議などの会談に応じてこないなどの妙な口実を与えてしまうことだ」と述べ、発動は慎重に判断すべきだとの考えを示した。
自民党の安倍晋三幹事長代理らが制裁発動を求めていることについては、町村外相は「単純にすっといけばいい、ということではない。しかし選択肢として持っているのだから、使うべき時は使う」と述べた。 無難な認識だと思う。経済制裁は、北朝鮮経済にいくばくかのダメージを与えると思われるものの、それが拉致問題の解決につながるという見通しはない。
「ニューズウィーク日本版」12月1日号によれば、北朝鮮の貿易総額に占める対日取引の割合は2003年度8.5%にすぎない。おまけに北朝鮮はもともと他国への経済依存度がかなり低く、GDPに占める貿易額の割合は10%~15%と見られている。したがって経済制裁の発動は、日本国内世論のガス抜きにはなっても、拉致問題を解決する決め手とは言いがたいように思われる。
とは言え、僕は経済制裁というオプションを頭から否定するつもりはない。実際、制裁推進派と慎重派が裏で手を握りながら丁々発止を演じて見せることは、北朝鮮を牽制する意味で有効だと考えている。「与党の声を抑えきれなくなっている。少しは譲歩してくれないと世論も持たない。本当に制裁することになってしまうぞ・・・」と日本から北朝鮮に圧力をかけるのだ。もっとも、この「演技」が行き過ぎると、国内世論が過熱化して、政府も経済制裁発動を引くに引けない状態に追い込まれる可能性はあるのだが。
経済制裁が現実味を帯びてくるとすれば、6か国協議が不調に終わり、アメリカが強硬路線に転換した時だろう。実際、今回のイラン核開発問題でも、アメリカは経済制裁含みで国連安保理への付託を狙っていた。
ただ、ライス長官の登場で、アメリカの北朝鮮外交が強硬化することを期待する見方もあるが、その可能性はあまり高くないのではないか。二つ理由がある。
一つは、先月25日、2年前の米朝高官協議でアメリカが示した「ボールドアプローチ(大胆な提案)」の全容が判明したことだ。11月26日付「朝日新聞」朝刊の記事「米、北朝鮮に包括支援提案 02年協議、核放棄の見返り 」によれば、「ボールドアプローチ」は、核放棄と見返りに国家建設と国際社会復帰への包括的な支援を約束するものとされる。
この命名者はライス氏本人であり、「この時期に複数の高官が詳細を語った背景には、第2期ブッシュ政権の発足を前に北朝鮮の出方を探る意図がうかがえる」という。つまり、ライス長官のオプションの中に、この融和的方針が含まれているのはほぼ確実と言うことだ。
もう一つの理由は、ここにきてイランの核問題がこじれていることだ。イランがIAEA理事会決議に従いウラン濃縮関連活動を停止したことで、アメリカ単独の安保理決議付託というシナリオは当面回避された。しかし、イラン前大統領のラフサンジャニ最高評議会議長は12月3日、ウラン濃縮関連活動停止は最長6カ月間だと述べており、英独仏3カ国との経済・技術支援交渉の首尾によってはふたたび問題がぶり返す怖れがある。
イランの核問題を放置すると、イランへの対抗的措置として近隣中東諸国の核開発が活発化し、それに対するイスラエルの先制攻撃が起こりうる(12月6日付『朝日新聞』朝刊の記事、「中東潜む『核連鎖』」を参照)。イランの核問題は正念場を迎えている。第2期ブッシュ政権にとって、北朝鮮問題を当面措いてでも取り組むべき課題となるかもしれない。
では、いま、日本は北朝鮮問題にどう取り組むべきなのか。ヒントになるのは、今回のイラン問題で、アメリカの強硬路線が頓挫した原因を考察することだ。11月30日付『毎日新聞』記事「IAEA:イラン 米、国内保守派の圧力回避に成功」によれば、「イランがとった戦術は、中国、ロシアの理解を求めて安保理付託の場合に備えながら、欧州との交渉を継続して米欧を分断させることだった」。その結果、イランは、経済権益をちらつかせて中露を取り込み、米欧の温度差につけ込んで、まんまと原子力の平和利用の権利をIAEAに認めさせた。
要するに、もっとも警戒すべきことは、関係国の足並みの乱れなのである。いま6か国協議関係国は、当事者である北朝鮮をのぞき、協議の早期再開で一致している。また6か国協議を、最も重要な交渉の舞台と位置づけている。Tomorrow's Wayさんの言葉を借りれば、6か国協議は対北朝鮮「ABC包囲網」だ。日本は、これを最大限活用して、北朝鮮をギリギリと締め上げていくべきではないか。
拉致被害者家族の皆さんの心情を考えれば、大変忍びないのだが……時間がかかっても、日本は関係国と共同歩調を取りつつ、同時に拉致問題への国際的関心を高めながら、粘り強く交渉していかなければならないと思う。日本単独で経済制裁を発動することは、むしろ北朝鮮にとって思う壺となってしまう可能性あることを認識する必要がある。]]>
あやしき人々
http://priestk.exblog.jp/1286173/
2004-12-05T00:42:32+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-05T00:41:40+09:00
priestk
雑談
よく、あたかもpriest自身が神秘的な能力を持っているように誤解される向きがある。しかし、少なくとも、日本の伝統宗教に属するpriestにはそのような力はないと言っていい。霊力を発揮されるのは神仏ご自身であって、神主や僧侶ではないのである。
もちろん、priestの中には、長年の修行によって得た豊かな教養や味わい深い哲学、そして一種のカリスマ性をお持ちの方はいらっしゃるのだろうけれども、それは決して神秘的な「何か」ではない。
さて、霊感に縁の無かったはずの僕が、先日、総武線で不思議な人物と遭遇した。
時刻は昼過ぎ。冬晴れのよく晴れた日であった。車内はわりと混んでいる。僕はつり革にぶら下がり、高橋克彦著『炎立つ』の最終巻を読んでいた。Shu's blog 雌伏編さんの記事で以前紹介されていた本で、これがめっぽう面白いのだ。
黙々と読み進むうち、ある駅で僕の目の前の座席が空き、黒っぽいコートを着た女性が座った。僕の右手の『炎立つ』ごしに、女性と目が合った。年のころは30代後半か。色が白い。ごくごく尋常なご婦人であった。もちろん、覚えのある顔ではない。
数分後、異変が起きた。僕の両足の靴の先端に、なにやら感触がある。見ると、その女性の靴が僕の靴の上にちょこんと載っている。しかも、本人はそのことに気づいているのかいないのか、一向に自分から足をどける様子が無い。仕方ないので、僕は何も言わずにそっと両足を動かした。女性はこちらを見るでもなく、じっとしている。
まあ、こんなこともあるだろう――。それから再び僕は『炎立つ』の世界に没入した。ところが、その数分後、今度は僕の右足に女性の靴が載った。ここで僕はちょっと疑念を抱いた。ひょっとして知り合いか?知り合いが気づかせようと思ってふざけているのか?
相手の顔を見た。やはり、どう見ても知らない顔だ。女性は眠るでもなく前を見ているが、僕と目は合わせない。普通ならここで声をかけるところだが、僕はこのままいつまで女性が靴を載せているつもりか試してやろうという気になった。
じりじりと時間が経った。もはや『炎立つ』どころではない。文字が頭を素通りする。ほんの1、2分で女性は靴をどけたが、おそろしく長い時間に感じた。
これは、ちょっと変な人にちがいない――。そう思い定めて、精一杯、両足を女性から遠ざけた。ところが、女性は座ったまま足を伸ばし――今度は僕の左足に靴を乗せた。その瞬間、肌があわ立った。思わず女性の顔に目を向けると、今度は向こうもこちらをしっかりと見つめている。僕が声を上げようとした途端、電車が駅に着き、女性は降りた。
冷静になって考えれば――女性は一種の逆セクハラをしていただけかもしれない。妻や妻の妹はそう言って笑う。しかし、電車を降りた直後、僕は父から以前聞いた話を思い出していた。
ある日、父が地下鉄に乗っていると、目の前に座った老人が立ち上がり、声を掛けてきた。
「旦那、旦那みたいな人が、そんなものつけてちゃいけませんよ・・・」。そう言って、しきりに父の顔に手を伸ばし、何かをつまみ取ろうとする。父は慌てて車窓に映る自分の姿を確認したが、何もついてはいない。「何にもついてないよ、やめてよ」と言う父に、老人は「そんなのつけてちゃおかしいですよ」と同じ言葉を繰り返す。いい加減頭にきた時、老人はある駅で降りた。
変な人がいるもんだ――そう思いつつも、父は乗り換えのため新宿駅で地下鉄を降りた。そして売店でカップ入りのコーヒーを買い、乗り継ぎの電車が来ているホームへと急ぐ。
そのとき、一人の女性が「ちょっとちょっと」と父を呼び止めた。「なんですか?」「コーヒー、こぼれてますよ」「えっ?」カップの入ったビニール袋を見ると、穴が開いているのか、たしかにコーヒーが滴って、床まで汚れていた。時間が無いので、やむをえずそのまま電車に飛び乗った。
やれやれ――。と、思いながらビニール袋を見る。ところが、コーヒーは、全然こぼれていなかった――。
この二つの出来事を、父は次のように解釈した。実はこの日は、あるお社のお供え物を取り替えなくてはいけない日であったが、父はそれを失念していた。それゆえに、神仏があのような形で注意を促されたのではないか――と。
仮に父の話を信ずるとすれば、僕が電車で出会った奇妙な女性も、何かメッセージを伝えようとしていたのではないかという気がしてくる。そんなわけはない、と否定したいのだが、一度このように考え出すと気になって仕方がなくなる――結局その日の帰り、僕は実家に立ち寄り、お賽銭を投げることとなった。]]>
だれが外国人労働者受け入れのコストを負担するのか
http://priestk.exblog.jp/1276040/
2004-12-04T04:19:19+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-12-04T04:17:34+09:00
priestk
外国人労働者論
もちろん、異文化共存は困難であっても、「可能」である。しかし、それを「可能」ならしめるためには、それ相応の知恵と工夫、そして「共存の必然性」が欠かせない。はたして、日比FTA合意を機に盛り上がりつつある日本経済界の外国人労働者受け入れ論議に、知恵・工夫・必然性は備わっているのか。
11月29日、日本・フィリピン間で、FTAを中心とする経済連携協定が合意に達した。注目されていた労働市場の開放については、看護師や介護福祉士を条件付きで受け入れることに決まった。
今回の看護師・介護福祉士の受け入れに関して、「初の労働市場開放」と報じたマスコミもあるようだが、これは事実として正確とは言いがたい。現実に、約80万人の外国人がすでに日本で働いている。80万人といえば、地方の県庁所在地並みの人数だ。
原則として、政府が外国人に就労を認めているのは、「高度な技術・技能」を要する職種のみだ。いわゆる「単純労働」については、社会的コストの増大を理由に認めていない。しかし、実際は多くの「裏道」が用意されている。「裏道」作りに奔走したのは、自民党労働族だ。
以前の記事でも触れたが、1990年、自民党の後押した入管法改正によって、日系人の就労緩和が実施された。結果、90年時点では約7万人だった日系人の外国人登録者数が94年には約20万人、2003年には約33万人に達している。日系人には、事実上、就労に関する制限はない。そのため、日系人成人の多くは「単純労働」に就いていると見られる。
一方、問題になっているのが、外国人労働者の公的医療への未加入や児童の未就学、近隣住民とのトラブル等だ。具体的な対策を求められる自治体では、国に抜本的な取り組みを求める声が高まっている。
しかし、厚生労働省や文部科学省の腰は重い。「医療費未払いや未就学などの問題は日本人にもある。外国人だけ特別に対応するわけにはいかない」「原則的に、医療保険への加入は雇用主、教育は親の責任」と、国の担当者は言う。
さて、では外国人を雇用する当の経済界はどう考えているのか。以下、12月1日の日経新聞の記事経団連会長「外国人労働者問題、政府見解は絵空事」から。
日本経団連の奥田碩会長は1日、外国人労働者の受け入れ問題についての経団連シンポジウムで講演し「単純労働者の受け入れは慎重に考えるという政府の公式見解は、既に現実をかけ離れた絵空事、建前になりつつある」と述べ、外国人の秩序ある受け入れを改めて求めた。 政府の公式見解が矛盾を抱えているとの指摘には同感する。さすがにグローバル企業を率いる会長だけのことはあって、霞ヶ関の官僚より広い視野をお持ちのようだ(^^)。
労働力の不足が見込まれるなか「すべてを日本人だけでやっていこうという考え方は成り立たなくなっている。既に外国人は多数就労し、経済の一部を支えている」と指摘(中略)「重要なのは(外国人を)受け入れるか否かを議論することではなく、いかにうまく受け入れるかを議論することだ」と強調。具体的には「高度人材に限らず、製造業などの現場や看護師、介護士などの分野でも透明で安定的なシステムで前向きに受け入れるべきだ」と提案した。 この発言には、安易に頷くわけにはいかない。外国人労働者が日本経済の一部を支えていることは、たしかに事実であろう。しかし、先に挙げたように、定住外国人の社会保障、教育、住居等に関わる問題は、未解決のままだ。これらの問題をどのように解決していくのか。その裏づけとなる資金は、誰が負担するのか。企業か、政府か、外国人自身か。その選択を誤ると、異文化共存はもろくも崩れ去るはずである。]]>
女性天皇雑感
http://priestk.exblog.jp/1187007/
2004-11-27T16:47:52+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-11-27T16:47:00+09:00
priestk
天皇論
ただし、例によって、体系だった考察をしているわけでもなければ、明快な政策提言をしているわけでもないので、ご容赦のほど(><)。
自民党が憲法改正草案の大綱試案の中で触れたこともあって、女性天皇の是非をめぐる議論がふたたび活性化している。印象としては、女性天皇を認める意見が主流を占めつつあるようだが、僕自身は「なるようになる」というのが偽らざる気持ちだ。
天皇家は、時代の流れの中で、時には驚くべき変化を遂げながら今日まで存続してきた。僕は、天皇家が伝統と権威に寄りかかって安穏と続いてきたとは、どうしても思われない。むしろ、歴代天皇の現実的な政治感覚見……わけても時の権力者との絶妙な距離のおき方が重要だったのではなかろうか。
それでは、現代日本の権力者は誰か。名目上も、実態においても、それは国民であろう。実際、天皇家は、かつての藤原氏や徳川家、薩長藩閥政府とうまく共存したように、今日では、日本国民に対して、その鋭敏な政治感覚を働かせているように見える。
たとえば、昭和天皇は側室を廃止した。男子誕生の可能性を減らすことになるにもかかわらず、側室を置くことが国民感覚に合わないことに配慮した上でのご判断であったと言われる(ちなみに明治天皇には6人の側室がおり、大正天皇は側室の子であった)。
昭和天皇のさらに重大なご決断は、皇族どころか旧華族ですらない女性(口の悪い人は「粉屋の娘」と呼んだ)を皇太子の后として迎えたことだ。これに対する当時の天皇家周辺の抵抗感は、いかばかりだったろうか。「これで皇室もお終いだ」との声も出たと言う。
しかし、結果として、このご成婚によって空前の皇室フィーバーが巻き起こったことは言うまでもない。それと同時に、「普通の家族」としての天皇家が国民に強くアピールされることになった。「民間人」との婚姻は、藤原氏や徳川家との婚姻と同様の政治的意味を持ったと言えるのではないだろうか。
国民世論は、たしかに深い見識や熟考によって女性天皇を支持しているわけではない。また、皇室の様々な「伝統」は、変えずにすむものなら、変えるべきではないとも思う。しかし、権力者である国民世論の支持なしに、安定した天皇制を維持することは難しい。そのことを一番よく認識しているのは、ほかならぬ天皇ご自身であろう。
国民の意思が女性天皇を支持すれば、皇室はそれに合わせて「新しい伝統」を生み出していく。支持しなければ、旧宮家を復活させるだろう。どちらにせよ、皇室は存続し、天皇制は維持されるはずである。
ちょっと楽観的な(天皇制に反対される方から見れば悲観的な)意見だろうか?]]>
日朝国交正常化の意義とは
http://priestk.exblog.jp/1087896/
2004-11-21T01:23:55+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-11-21T01:22:48+09:00
priestk
日朝関係論
「そもそも、なぜ、北朝鮮と国交正常化しなければならないのでしょうか?」
正直言って、ウッと詰まった。「あんな国」と国交正常化して、日本にどんなメリットがあると言うのだろうか。これは意外な難問である。とりあえずネットを調べると、外務省の公式見解があるじゃありませんか。以下に簡単に要約する。
外務省ホームページ「外交政策Q&A」(平成13年4月)
問いは、「北朝鮮との国交正常化は本当に日本の国益となるのでしょうか」というもの。これに対して、外務省は、国交正常化には3つの側面があると答えている。
第1は、「我が国がかつて植民地支配を行った地域との関係を正常化するという側面」である。つまり、かつて植民地支配下においた国と国交を結ぶことは、歴史的・道義的な意義があると言うわけである。また、約200の国連加盟国のうち、日本と国交を結んでいないのは北朝鮮のみであり、近接している両国が「そのような関係のままでいること自体不正常なことである」と主張する。
第2は、「北東アジア地域に平和と安定をもたらし、ひいては我が国の安全保障を高める」という側面である。特に北朝鮮の弾道ミサイルは日本にとって脅威である。これを取り除くためにも、国交正常化して対話の場を設けることが、安全保障上の利益に適うと言う。
第3は、「拉致問題などの人道問題をはじめとする日朝間の様々な懸案において、目に見えるような進展を得る」側面である。「そのためには、いたずらに北朝鮮を孤立に追いやるのではなく、むしろ対話を進めていくことにより、これらの解決の糸口を見出していくほかはない」と述べている。
外務省は、こうした側面を踏み外さずに国交正常化すれば、日本の国益に資すると考えているようなのだが、果たしてどうだろうか。思いつくままに問題点を列挙すれば、
・国交正常化の「歴史的、道義的な意義」それ自体を「国益」と呼べるのか。歴史的、道義的な意義とは個人の思想信条の範疇に属するものである。北朝鮮との国交正常化に「意義」を感じるかどうかは、当然、国民一人ひとり異なる。国交正常化によって、核開発問題が進展するとか、北朝鮮国内の人権問題が減少するとか、拉致問題が解決するとか、そういうことに結びついてこそ「国益」なのではないか。
・北朝鮮にとって「軍事的牽制」は最後のカードであり、それなくしては、単なる経済破綻国家となってしまう。ミサイル発射実験の一時凍結といったうわべの譲歩はありえても、周辺国にとって北朝鮮が軍事的脅威でなくなるような妥協は、容易に行なわない(というか、行なえない)のではないか。
・拉致問題にせよ核開発にせよ、その解決を求めるということは、北朝鮮を「そうせざるを得ない状況」に追い込んでいくことにほかならないと思う。孤立化させるのも、「対話」するのも、すべてそのための布石である。これは大変な知的作業だ。それにもかかわらず、外務省は「対話を進めていくことにより、これらの解決の糸口を見出していくほかはない」と言う。いささか安易な姿勢だと指摘せざるを得ない。
つらつら書きつらねてきたが、どうもまだ考えがまとまっていない。問題の指摘は今日はここまでにしておきたい。
結局、僕が言いたいのは、前回のエントリと変わらない。マスコミは「対話路線」とか「強硬路線」とか騒いでいるが、アプローチはあくまでアプローチであり、目的達成のための「手段」に過ぎない。北朝鮮を日本側の意向どおりに動かすことが出来れば、それでいいのである。そういう意味で、経済制裁論者も、外務省も、ナイーブすぎると思われてならない。]]>
経済制裁発動で北朝鮮は屈するか?
http://priestk.exblog.jp/1067536/
2004-11-19T19:58:52+09:00
2006-05-01T18:35:24+09:00
2004-11-19T19:57:45+09:00
priestk
日朝関係論
本日(19日)午後には、衆院に「拉致問題特別委員会」を今国会会期中に設置し、「日朝実務者協議で持ち帰った資料の精査、北朝鮮への今後の対応を議論する」ことに自民党と民主党が合意した。
経済制裁や食糧支援凍結が実施される可能性は、かつてないほど、高まっている。報道からは、そんな印象を受ける。
拉致問題に関する北朝鮮の対応は、どう見ても誠意あるものとは思えない。問題を解決しようとする姿勢が、そもそも見えない。
こんな状態で実務者協議を続けていくことに、意味があるのか。相手の出方に合わせて、こちらも相応の手段を取るべきだ――。そう考える気持ちは、大変よく理解できる。
しかし、ここで熟考しなくてはならないことがある。「北朝鮮が拉致問題の真実を明らかにする条件とは何か」、これである。
おそらく、真実を明らかにすることは、北朝鮮にとって非常にリスクの高いことなのだろう。ひょっとすると、政権を揺るがしかねないほどに。さもなければ、のどから手が出るほど欲しいはずの日朝国交正常化後の経済支援を我慢して、日本の世論を刺激するような対応に終始する理由が判らない。
なぜ僕がこんなことを言うのかといえば、経済制裁が北朝鮮に与えるダメージについて、ほとんどまともな議論がなされていないように見受けられるからだ。要するに、北朝鮮政府にとって、拉致問題を明らかにして受けるダメージが50なのに、日本の経済制裁から受けるダメージが20しかないとすれば、ほとんど効き目はないということだ。この辺の勘所を、日本政府や与野党の政治家は掴んでいるのだろうか。
中には、断固として拉致問題の解決を求めるという日本の姿勢を示すために、経済制裁や食糧支援の凍結を実施すべきだという意見も聞かれる。たしかに首肯できる部分のある主張だとは思うが、この場合、日本政府も十分にリスク計算をしなくてはならない。
考えるべき第1点目は、国際世論および6カ国協議参加国が日本の行動を支持してくれるかどうかである。特に、日本と比較的立場の近いアメリカおよび韓国が経済制裁の発動に懸念を伝えてきた場合は、日本が孤立化することになりかねない。
2点目に考えるべきことは、経済制裁を発動しても効果がなかったとき、もはや次に打つべき手はないという事実である。であるからこそ、経済制裁にどの程度の「効果」が見込めるのか、しっかり議論して欲しいと思う。
横田さん夫妻のご苦悩を思うと、心が焦れる。できることは何でもして差し上げたい、という気持ちになる。
しかし、「結果」を出せなくては意味がないのだ。威勢のいいパフォーマンスに調子を合わせて、再び拉致被害者のご家族を失望させることがあってはならない。
そう僕は思う。]]>
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